18 鎌倉古道 十九首塚 原川薬師堂 日蓮父母墓 淡海国玉神社 見付小   静岡

28 km  2002/08/28

鎌倉街道へ


 

 JR掛川駅からスタート。東海道を行く。珍しい名前の町名に出会う。東海道を歩いた時は、気付かなかった。

 十九首町(じゅうくしょちょう)。

 10世紀、平安時代初期に反乱を起こした平将門が鎮圧される。

 討伐隊のの大将、藤原秀郷が、将門と家来を含めた19人の首を持って、京に帰る途中、ここで首実検を受け、路傍に捨て られた。

 秀郷は、将門が天皇の子孫であったこともあり、また、屍に鞭打つは非道なりと、懇ろに埋葬した。当初19あった塚も、最近は、将門の物と言われる大きな塚1つになってしまった。

 最近、19塚を作り直した。地元では、守り神として春秋の彼岸、8月15日の命日には、供養際をやっているとのこと。

 ここでの首実検も、逆臣は禁裏に近づけるな、が理由。地元の人が、供養するのも、祟りを恐れて。我々の生活は、常に、怨霊を恐れる生活が、昔からずっと続いている。

 十九首という名は、昔からあったようだ。鎌倉街道ははっきりしないので、東海道を行くことにする。

 岡津善光寺、原川の薬師堂をお参り。鎌倉街道は、この道より、南のようであるが、地図上にもそれらしい道も見えないので、東海道を行く。

 袋井市にはいると、浮世絵風の袋井の名勝地を描いた駕籠の形の洒落たゴミ収集場があった。

 富士浅間宮の大きな赤鳥居。法多山、油山寺への案内道標がいくつか目に付いた。

 日蓮宗の日蓮の親は、ここ貫名(ぬきな)の貫名重忠。失脚して、安房の小湊に流されて、日蓮が生まれた。日蓮は名のある武士の子。

 その両親のお寺、妙日寺をお参り。妙日尊儀、妙蓮尊儀供養塔は、塀の奥にあり、お参りはできなかった。

 七つ森神社をお参り。

 袋井市役所近くに、東海道どまん中茶屋があった。

 呼び止められて、お茶をいただく。冷たい饅頭と熱い茶がうまかった。

 

 東海道がどんどん消えて行くので、市役所を定年で辞めた時、市長に茶屋を建ててもらい、茶屋守をしている、と言うおじさんと世間話。

 この茶屋は三,四年前に出来た。東海道を守るネットワークがある。岡崎の何々さんを知っているかとか、磁石持ちは、初めてか、とかのお話。話に夢中になり写真撮影を忘れた。

 本陣跡などきれいにしてあった。

 中学校の校庭に万葉歌碑があった。「時々の花は咲けども何すれぞ母とふ花の咲き出来ずけむ」、「遠江白羽の磯とにえの浦とあひてしあらば言も通はむ」の2首。この地方から出た防人の歌。

 JRのポスターで見た東海道ど真ん中の西小学校校門を撮影。

 木原畷、家康と武田信玄の古戦場。家康の負け戦の地。家康の腰掛け石があった。

 三ヶ野台地登り口と、台地頂部の東海道とまじわるところに、鎌倉古道の石碑を見付けた。頂部の分は、かって東海道を歩いた時、見付けた物。石碑は新しい。地元の方々がこのようにお守りしていてくれると、本当にありがたい。

 頂部近くに、大日堂あり。大日如来の小堂だそうです。現地には古戦場の説明はあったが、お堂については何も説明はなかった。

 遠州の鈴ヶ森の看板あり。「南無阿弥陀仏」と「妙法無縁之霊」の2つの石碑があり、小さな地蔵尊が何体かあった。

 阿多古山一里塚。いよいよ見付の宿。十六夜日記の「こよいは、遠江見附の里といふところにとどまる。里あれてものおそろし」の見付である。

 大見寺、淡海国玉神社お参り。

 旧見付学校を拝見。記帳して明治の学校を見る。「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」の教科書があった。この教科書を使った記憶がある。

本日歩いた概要図

 

 

以    上        TOPへ戻る