26 鎌倉古道 踏分の森 不乗森神社 花の滝 無量寿寺 在原寺 根上がり松 業平塚 落田中一松 祖母神社 大久伝八幡社 鹿島神社 二村山 峠地蔵   愛知

29 km   2002/10/17 作成 2003/05/07

西行・一休など    鎌倉街道へ

26 愛知 無量寿寺 杜若 在原寺 根上がり松 業平供養塔 落田中一松

2002/10/17 作成 2003/05/07

西行・一休など    能舞台の名所・旧跡へ


 

 宇頭駅から踏分の森へ向かう。森と言っても、今は、小さな林、鎮守の森でしかない。熊野神社の森である。 鎌倉街道の説明看板があった。その中で踏分の言われも説明があった。京都から来て、ここで、大きく南東に曲がるため、踏分と言われるようになったとのこと。なぜ、踏分だろう?

 日葡辞典にも載っているが、「道を切り開きながら行く」、例として「雪を踏み分くる」と出ていた。

 踏分の森の付近は、戦争中、予科練の訓練所で、飛行場もあったとのこと。今は、田圃が広がっているが、水を止めれば、飛行場が出来るほどの高台であったんだなと思う。今は、その気配は何にもない。

 信州へ塩を運んだ大浜街道を横切ると、小さな墓地があった。その一角に「柴田助太夫の墓」があった。昔、助郷(江戸時代、宿の人夫など不足する時、応援に出ること)の負担が大きく、拒否して、刑死した人だそうです。 初めて知りました。

 明治用水を渡る。この辺りの高台は、水がない。昔は、人力で水を汲み上げていたが、先人が矢作川の上流から取水して水路でこの高台に水を引いてくれた。以後、有名な穀倉地帯となった。

 猿渡川沿いは、足取、沼地、七曲がりと言う字名があったが、街道は、高い所を通っている。道が建物のない田圃にはいると、周りの見通しがよい。

 猿渡川を渡ると、不乗森神社。お参り。

 「見ざる、言わざる、聞かざる」の神猿の説明があり、「悪い物は見ない、悪いことは言わない、悪いことは聞かない」の意味だとあった。良い勉強をした。

 また、大きな釜が、しめ縄を張り鎮座していた。その言われは判らなかった。

 <インターネットで調査結果> 「大きな釜」: 不乗森神社では、平安中期から上代の占いの一種「探湯神事」として行われていましたが、戦国時代に中断。江戸時代中期に、五穀の豊作と無病息災を祈願する「湯立神事」として復活しました 、とありました。

 神社裏の道角に鎌倉街道の石碑があった。「馬降りて神の威徳をかしこみて鎌倉街道過きしもののふ」の歌が刻んであった。この神社は、みんな馬から下りたそうです。この付近は、縄文の二夕股遺跡。

 花の滝へ行く途中に、この道が、鎌倉街道と言う、説明文があった。何となくうれしくなる。 

 花の滝の石碑。昔、池があり、滝があった。江戸になるとこの滝も姿を消していたらしい。 「風わたる花をみかはの八橋のくもでにかかる滝のしらいと」と言う歌が伝承されているとあった。昔は知られていた名勝地だった。

 浄教寺お参り。

 無量寿寺お参り。杜若のお寺さん、八橋のお寺さん、春の杜若の花は見事である。

 在原業平の伊勢物語の世界が残っている。謡曲「杜若(かきつばた)」の八橋である。

 「東下り」に、「ささがにの蜘蛛手にかかる八橋や。澤邊に匂う杜若。在原の中将のはるばる来ぬと詠ぜしも。今身の上に知られたり」とある。

 在原寺お参り。業平没後13年目の892年、八橋川の辺に塚を築き分骨を納めて菩提を弔うため、建立されたと記録があるとのこと。

 根上がり松に、鎌倉街道碑。根の部分の土が流れてしまい根が浮き出たとのこと。鎌倉街道の並木だったとも言われているようです。

 名鉄三河線を渡り直ぐ右手に、業平塚があり、この近くの団地の中には、落田中一松があった。川の氾濫で崩れ落ちる田圃の中で、枯れもしないで、いつまでもそびえる松があった。業平が、馬を下り、干飯を食った所、から衣の歌を詠んだ所。

 塩付街道、ここにも塩の道があった。塩付街道に取り付く、工場と工場の間の狭い農道状の道に鎌倉街道伝承地の石碑があった。

 今日の歩きは、鎌倉街道を残そうとする地元の人達の、気持ちが滲み出ている所が沢山あり、日本も捨てた物でないとつくづく思った。

 祖母神社お参り。境内に、鎌倉街道伝承地の大きな石碑があり、道は確認は出来なかったが、街道跡が残されているとのこと。

 尾張、三河の境界近くに酒井神社。お参り。家康の家来、酒井氏の発祥地とも言われると板にあり。

 「それときくしるしばかりのさかい川ほそき流れはなにながれても」 室町中期の歌人飛鳥井雅世の歌碑があった。当時、すでに、境川の水量は少なくなっていたようだ。

 境川を渡ると、大久伝八幡社。お参り。境内に、13塚の碑があった。鎌倉街道の両側に塚が沢山あったので13塚。 字名で残っている。ただし、信号機の地名標示やバス停だけになっているが。

 祖先供養の民間信仰だったようだ。祟り封じだった。

 隣に、お紺女郎之塚があった。伊勢古市の油屋騒動(お紺が他の客に呼ばれいつまでも戻らないので、馴染みの地元の医者が怒って、何人かを斬り殺して、自殺した と言う筋)のお紺の塚。地元では「オコンジョロ」と呼ばれて居るとのこと。

 鹿島神社お参り。昔は川島神社と言った。業平、東下りの折り、宿屋の軒にわら沓のかけてある風情をおもしろく思い、ここを「沓掛」と名付けた。

 又、ここの女を愛し、別れる時、1首を詠んだ。「あひ見ては心ひとつをかはしまの水の流れて絶えじとぞ思ふ」

 

 

 ここから、登り道。両側は、住宅地。二村山入口の看板を左折して、登る。非常に静か。かすかに車の音が耳にはいる。

 西行、頼朝、義経、阿仏尼も、この山を通ったようだ。

 「はるはると二村山を行き過ぎて猶すえたてる野路の夕やみ」 西行

 「よそに見しをささが上の白露をたもとにかくる二村の山」 頼朝

 「はるばると二村山を行きすぎてなほ末たどる野べの夕やみ」 阿仏尼

 袈裟切り地蔵お参り。名古屋市の最高地・二村山頂に近い地蔵堂に安置されている3体のうち、向かって左の頭部のない地蔵尊で、背面に「大同ニ」(807年)の刻銘があ るとのこと。いつの頃か、旅人が熊坂長範という盗賊に襲われたとき、地蔵尊が身代わりとなって切られ、肩から上が欠落したという。

 保健衛生大学の際に、大きな池あり。濁り池である。ここまで、海が入り込んでいたようだ。満杯に流れる愛知用水に沿って下る。立ち入らないように、丈夫な柵が、がっちりと設置されている。高台の水路で、人の通りも少ないし、落ちたら、お陀仏だなとか考えて歩いた。






本日の歩いた概要図

 

 

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