21 鎌倉古道  浜名橋 紅葉寺 普門寺 普門寺峠 鞍掛神社 赤岩寺   静岡

30 km  2002/09/18

鎌倉街道へ


 

 新居関所は開いていません。7時30分では当たり前でした。隣の空き地を掘削していた。関所の遺跡調査中の説明書きがあった。

 鎌倉時代の橋本宿。[橋本千軒、日ガ崎(浜名橋を挟んだ向こう側)千軒」と言われたが、今は、1号線沿いの新居町の外れで、宿場の面影は何もない。

 浜名湖が湖であった時、浜名湖の水は、新居から西方向に川が流れ橋本の西側で遠州灘に流れ出ていた、この橋本にその川を渡る橋があり、浜名橋と言った。長さ170mもあったようだ。幅広の河だったようだ。

 浜名湖と遠州灘の海の間を歩いて、浜名橋を渡って橋本に入った。今も、浜名川があるが、これは西から東に流れているし、幅も20mはない。

 歌枕。枕草子にも「橋は、あさむづの橋、・・・・・はまなの橋、・・・・・」とある。

 源太山、源太坂の名も残っている。

 1号線の南、民家の軒下に、「風炉の井」があった。頼朝、上洛のおり橋本に宿泊した時、茶の湯に用いた井戸と言われているが、風炉の意味は判らないとのこと。

 頼朝は、数日ここに泊まった。その時愛した遊女「もみじ」にまつわる悲しい話があるそうです。その名を残した紅葉寺廃寺跡があった。古い石塔と小さな祠、寺名を書いた石塔があった。その他、頼朝の話が沢山残っているようだ。

 ここから、東海道と分かれて、北上し、鷲津方面の丘陵地に向かう。新幹線を越えると、山は削られ、畑や工業団地になっている。

 湖西市山口に豊田佐吉の生家があった。定休日で、中は見られなかったが、「障子を開けてみよ 外は広いぞ] の佐吉の言葉があった。

 この山口は、鎌倉時代は、浜名湖の入り江だったようだ。その後土砂で埋まり田作りが始まった。

 市場の集落に、熱田神社があった。名古屋の熱田神宮から勧請したものだそうです。

 新所原の駅近くで、東海道線を越え、なお、普門寺に向かって北上する。

 普門寺は8世紀、行基の創建、しかしその後、荒廃したが、頼朝の叔父が再興し、頼朝も寄進して、隆盛を極めた。戦国時代、兵火により灰燼に帰す。いまは、こぢんまりとしたお寺さんである。

 山道は、自然歩道となっており、愛知県の手洗に出る道も、健在のようだ。説明文によると、山の中腹に鎌倉街道が残っているようだ。その道を行ってみることにした。

 草を刈ってあり、これはしめたと思ったが、鎌倉街道らしい道は、草が覆い被さっていた。ハイキングコースを外れるためのようだ。道は判別できるので、前に進むと、元堂跡に出た。

 少し平らな地形と看板のみで、ここに元の本堂があったかと思う。よく見ると、消えかかった文字で、旧鎌倉街道の標示ある看板があった。道がお寺の説明通りであり、安心して登る。まもなく峠に到着。普門寺峠であり、鎌倉街道の峠らしい。

 静岡、愛知の県境の山で、縦走路を含めて、神戸の六甲山のように、ハイキングコースになっている。10分もたたないうちに、縦走組のグループが2組。

 世間話と登山コースの話をする。普門寺コースは道が急坂で敬遠されているとのこと。葦毛湿原から多米峠が人気があると言って見えた。本坂峠は、少し遠すぎるとのこと。言われることは、だいたい理解できた。

 30分ほどで手洗の集落に出た。

 馬繋ぎの桜の木があり、鞍掛神社があった。頼朝の馬が死に、ここに葬った、また、鞍を鞍掛神社に寄進した。

 赤岩寺お参り。赤岩寺は普門寺と同じ、行基の創建。

 豊橋市の市電、私鉄の路面電車であるが、まだ動いている。150円一律料金だった。冷房も効いていて、渋滞には巻き込まれず、あっという間に豊橋駅に着いた。

本日歩いた概要図

 

 

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