34 鎌倉古道 安立寺 班女堂 十九女池 不破の関 妙応寺 寝物語 白清水 岐阜 25 km 2003/02/18
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JR垂井駅から歩く。 垂井府中まで、1km程北上し、先回の続きを歩き始める。 安立寺お参り。ここは、安立寺を含めた地域に、大化の改新により、国府が設置された。美濃国府。今も瓦が出土するそうだ。 |
浄林寺、清蔵寺お参り。ここから西に向き田圃の中を行く。 古い集落の漆原、下町を通り、相川を南に横断。 |
下町に徳法寺があり、境内に、化月坊の句碑があり、辞世の句、「世は夢ぞ 南無阿弥陀仏 ほととぎす」が彫ってあった。化月坊は、芭蕉と同時代の俳人、武士でこの地方の 俳諧の道に精進した人。 JR東海道本線を南に越え、中山道を西に向かう。国道21号も随分高台を通っているが、鎌倉街道は、所々、もっと、南の山に入るらしいが、今は道跡はない。 |
野上の若宮八幡神社をお参り。新幹線を南に越えた山の中腹にある。 壬申の乱の大海人皇子の行宮(あんぐう)跡が、少し山に入った所にあった。朝鮮式土器が出たり、また、お寺もあったらしい。 今は、畑で、石積があった。 |
国道21号の南側の高台に真念寺。お参り する。この境内に、班女の観音堂があった。班女は野上の遊女。都の吉田少将と契り、形見に扇を貰うが、これを持ち尋ね廻るが、扇が縁で、京都糺すの森で再会する話。 |
旧中山道は国道より北、低い所を通っている。班女の家、野上の長者の家と言われる家が今も残っていて、邸内には班女化粧池が残り、班女の木像もあるとの事。木像は見た事がありません。 今日は立ち寄らない。 |
桃配山、今は、この国道が通るのに、かち割られてしまっている山。家康の陣地だった場所。ここは、よっぽど地の利を得た場所だったらしい。地図を見ると、関ヶ原が一望の下に見える高台だ。 |
十九女池(つづらいけ)。龍女伝説の池。 「つづら姫の笛」の詩の看板があり、公園になっていた。 「昔々のことやけど 夜更けて1人のお姫様 歳は十九の別嬪で 横笛吹いて通ったと 若者居る家探しては お椀を貸して貰ったと 若者達は部屋の中 美し笛の音待っていた 胸をどきどきさせながら 娘の来るのを待っていた しかしいずこの娘じゃろ まさか大池十九女池 大蛇の化身であるまいか 娘が来た時そのすきに 大蛇の嫌いな針さした 娘はばったり来なくなり お椀と横笛残したと」 関ヶ原地区は、南の名神高速道路沿いが道だったようだ。高台の道。 |
途中、脇坂安治陣地跡を見た。賎が岳7本槍の1人だったが、東軍に通じていたので、小早川の裏切りは願ってもない事で、東軍が優勢になると、 自分の大将である大谷隊の側面に突っ込んだそうだ。 浅井長政の家来だったが、秀吉について手柄をあげ、ここで家康について、以後、生き長らえている。世渡りが上手だったんだろうと思う。 |
関の藤川に沿って北上し不破の関へ。この川も歌に詠まれている。 |
十六夜日記、阿仏尼。 18日、美濃の国、関の藤川わたるほどに、まづ思ひつづけける。 「わが子ども君に仕へんためならで 渡らましやは関の藤川」 不破の関屋の板びさしは、今もかはらざりけり。 不破の関を尋ねた。中に入った事は無かったが、今は綺麗に整備されていて、入れた。歌碑が芭蕉句碑はじめ6個あった。 「松風や薮も畑も 不破の関」 芭蕉 不破関資料館を拝見。壬申の乱頃の兵隊の等身大の模型があった。 |
旧中山道を行く。鶯の滝。歌にも詠まれ、有名な滝だった。 |
新幹線を南に横切り、義円、義経ら3人の子を産んだ、常磐御前の墓をお参り。明るいお墓になってい て、うれしかった。芭蕉の句碑 「義朝の心に似たり 秋の風」があった。 |
今須峠を越え、今須宿に入る。 妙応寺お参り。曹洞宗のお寺。 |
近江と美濃の国境は、今も小さい溝である。壁越しに「寝ながら他国の人と話し合えた」ので、寝物語の名が生まれた。また、常磐御前が義朝の後を追って、近江の宿に泊まったところ、隣の美濃の宿で談笑しているのは義朝の家来と気付き 、奇遇を喜んだそうだ。 寝物語は中山道の古跡として名高く、歌にも良く読まれている。 |
柏原に入り、白清水(しろしょうず)に寄る。水は枯れていた。 日本武尊が伊吹山の神に悩まされ、この玉ノ井の水で正気に戻った泉と言う。また、照手姫が水を飲もうとした時、白粉で水が濁ったとも言う。 |
照手姫笠地蔵お参り。 常陸国の城主小栗判官助重が毒酒を飲まされ危篤になったとき、愛妾の照手姫が地蔵に笠をかぶせて平癒を祈願した。そのかいあって小栗は平癒し、長久寺に蘇生寺を建立し、地蔵はその寺に祀られたという。 |
本日の歩いた概要図
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