17 壺阪寺 高取城址    奈良

18km       2005/06/05

低い山登り・峠越えへ


 

 梅雨の前の晴れた日をねらっていたが、今日になってしまった。曇り空であったが、雨には降られなかった。

 少し遠いので、新幹線で京都、近鉄に乗換、壷阪山駅へ。バスで、壷阪寺。壷阪寺をお参りの後、歩いて、高取城址へ登る。壷阪山駅まで、高取の町を歩いた。

 10時に壷阪寺到着。

 真言宗のお寺で、正式の名は、壷阪山南法華寺と言い、西国三十三所の第6番目札所。

 「日本感霊録」に、平安時代の9世紀初めの弘仁年中、盲目の沙弥が壷阪観音の信仰で開眼治癒したという話があり、すでに、この頃から本尊の十一面千手観音は民間の信仰を集めていたようだ。

 また、明治の始め頃、まとめられたと言う、浄瑠璃「壷坂霊験記」は、その眼病に霊験があったことを扱った内容だ。

 写真は、左から、 壷阪寺遠景、灌頂堂、多宝塔。

 本堂礼堂

 本尊は遠くにあり、はっきり確認できなかったが、十一面千手千眼観世音菩薩。

 お参り。

 八角円堂は忘れて、お参りをしなかった。

 三重塔

 天竺渡来仏伝図レリーフ。

 

 天竺大観音石像

 昭和58年開眼した大観音はインド救ライ事業に対する感謝としてインドからおくられたものでインドとの深い縁から出現したものである。

 南インドの3億年前の古石を用い、延べ人数約7万人の石工達の協力で4年7ヶ月の歳月をかけ完成した。像を66個に細分化して彫って、組み立てたと言う。

 基礎は、岩盤まで掘られ、数万の写経と土台石が埋納。胎内には、数十万の写経と胎内石が納めてあるそうだ。 高さ20m、重さ1200トン

 天竺渡来大涅槃石像は、忘れて行かなかった。天竺渡来仏伝図レリーフもインドで作られた物。

 浄瑠璃「壷坂霊験記」のお里・沢市の石像。

 「物語」 疱瘡で目がつぶれた沢市は3つ違いの女房お里と住んでいた。沢市が三味線の稽古をつけての細々とした暮らしを、お里が賃仕事で助けると言う、仲のよい評判の夫婦です。

 ところが、女房お里は、毎夜明けの七つ(午前4時)頃に家を抜け出していた。目のみえない悲しさ、沢市は女房に情夫ができたかと疑う。

 しかしお里は毎晩夫の目があくように、この3年間、壷坂の観音様に願を掛けていたのでした。それを知った沢市は疑いを晴らし、お里に謝ります。

 お里は疑いさえ晴れれば本望と、沢市を観音様のお参りに誘う。観音様へお里と共にお参りに来た沢市は、自分が盲目のためにお里が不遇の暮らしをしているのだと思い、お里を家に帰し、谷へ身を投げてしまうのだった。

 不吉な予感で、お里が戻ってみると、沢市は谷の底。お里も沢市を追って谷へと見を投げてしまう。しかし、二人のせつない夫婦愛のために、観音様の霊験は、二人を助け、沢市の目をあけてくれるのだった。

 ラベンダーの花壇があった。ラベンダーを、こんなに間近に見たのは初めてだった。

 壷阪寺は、福祉事業を精力的に行っているようです。

 少し早い昼食を取り、高取城址へ向かう。

 11時30分、壷阪寺から、200m程舗装道路を歩いて、五百羅漢への道標を見て、山道に入る。

 見晴らしの良い場所があった。遠く二上山が霞んで見えた。

 11時40分、五百羅漢に着いた。岩盤に彫りつけてあった。

 最近の観音さんも並んでいた。

 左へ行くと、いろんな羅漢さんに会えると説明があったが、道を間違えたらしく会えなかった。

 12時10分、高取城址に到着。

 随分広い山城。城内は約1万平方メートル、周囲約3Km。郭内は約6万平方メートル、周囲約30Kmという広大なもので山城としては日本一と言う。

 明治に入って、取り壊されたと言う。

 たくさんの登山者がいた。ほとんどが、壷阪寺は寄らず、山登りに着たようだ。大阪の人が多い。

 高取城址の石垣。
 高取城址の石垣。
 石碑あり。「巽高取雪かとみれば雪でござらぬ土佐の城」と景観を謡われたようだ。

 雪と言われた高取山中に連なった白壁があったと言う。日本三大山城(美濃岩村城、備中松山城、大和高取城)の一つだ。

 

 

 12時45分、高取山頂上到着。高取山の頂上が、本丸。

 三角点があるはずだが、見あたらなかった。その代わり、山や、土地の名前を記した方位盤があり、経緯と標高が刻んであった。

 北緯 34度25分33秒594  東経 135度49分49秒242 標高 583.94m

 途中、見晴らしの良い場所があった。木を切り払い、丸太の椅子があった。

 橿原神宮の畝傍山や、

 二上山、葛城山が見晴らせた。

 13時20分、猿石があった。ここは、お城の外れで、二の門跡との事。

 猿石は、何を意味しているかは、分からないそうだ。制作は、飛鳥時代の斉明朝(7世紀)と言う。

 高取城築城の際、石垣に転用するために明日香から運ばれたと言われ、明日香檜隈(ひのくま)の吉備姫王(きびのひめみこ)の墓の域内にある石像物と同類のものであると言う。郭内と城内の境目を示す「結界石」とした説もある。

 ここを右に取れば、栢森(かやのもり)へ。今は、ほとんど使われていないそうだ。

 13時50分、高取町の民家に出会う。

 石垣の上の、形良く作られている。

 14時10分、家老屋敷の長屋門。

 高取城の旧大手門にあった、高取藩家老の屋敷門。

 江戸時代の造りで、近代武家屋敷表門の遺構を残している貴重な建物だそうだ。現在、旧藩主植村氏の住宅となっていると説明があった。

 田塩家の武士屋敷の長屋門もあり。

 14時30分、高取町土佐の町並みに至る。両側は石畳。 きれいに整備されていた。

 帰りは、京都へ出たが、近鉄電車が、踏切事故で、相当遅れた。

 遅くなったが、京都駅近くの例のラーメンを食べて帰ることにした。

 東海道本線で帰った。米原で、1度乗り換えた。21時自宅。

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