14 清見寺 水口屋 さった峠 望嶽亭 由比宿    静岡

 22km      2004/02/11

低い山登り・峠越えへ


 

 2年ぶりにさった峠を歩いてきた。

 新しい発見は、清見寺と興津駅の間の旧国道南側に、”鈴与研修センターと水口屋脇本陣跡の碑”を見つけたこと。宗像神社お参りしたこと。

 興津駅から西へ清水方面へ1kmほど行くと、清見寺。本堂の改修をしていた。本堂内部を見せて貰うつもりであったが、9時前でもあったので、今日も見ずに帰ることとなった。

 家康が植えたといわれる梅の木「臥竜梅」があり、与謝野晶子の歌碑があった。

     竜臥して法の教えを聞くほどに梅花の開く身となりにけり

 昔、袖師(そでし)の駅、袖師の海岸の海水浴場があったが、今は、その跡は全然残っていない。土地の人に聞くと、清水と興津の間に、夏だけ”袖師駅”が開き、列車(電車ではない)が止まったとのこと。清見寺の少し東側とのことだった。私も、中学の時、学校の林間学校で、3年間、袖師に通った。

     三井寺の鐘打つと言う清見寺五百羅漢に父の顔あり

 袖師辺りの旧国道南側に”鈴与研修センター”があった。昔、水口屋と言う旅館で、西園寺公望を尋ねる「興津詣で」の旅館として栄え、政治家、文学者等多くの有名人が泊まったとのこと。

 海岸の埋め立て等で、良い景色も失い、昭和60年代に廃業となったようです。

 ここを通った時は、何も知らなかったが、望嶽亭で、女将さんから、昔のいろいろな資料が、この鈴与研修センターの中にあるギャラリーで公開しているとのこと。「1度、ぜひ、見て下さい」とのことだった。写真も撮らず、通過してしまった。

 西園寺公望の別邸「坐漁荘」(ざぎょそう)の復元工事が進んでいるようだ。

 興津駅を過ぎ、旧国道を東に向かう。

 身延道の標識のある、交差点を通過する。身延山への道で、興津川沿いに昇り、峠を越え、富士川に出る道。日蓮宗の独特な”南無妙法蓮華経”の碑もあった。
 宗像(むなかた)神社お参り。福岡の宗像から勧請した古い神社とのこと。ここの神様の1人、奥津島比売命(おくつひめのみこと)から興津の地名が起こったと説明があった。
 興津川を渡り、その左岸を少し昇る。東町の集落を過ぎ、旧東海道のメイン道路である、さった峠への坂道を登る。
 11時。さった峠は、沢山の人達がいた。風もなく、暖かい、2月にしてはよい日である。ただし富士山は、頭がほんの少し見えるだけ。風が出始めたので、1時間程すれば、姿を現すかなと思う。
 桜が咲いていた。花が厚く、桃色。何と言う桜かな。
 峠を越えて、100円のみかんを買い、食いながら、ゆるい坂を下る。

 12時。ほんの一瞬だったが、富士山が姿を現した。少し霞んでいた。

 坂を下った所が、昔の倉沢村、倉沢地区。

 望嶽亭藤屋(ぼうがくていふじや)を拝見する。土曜日曜休日は開放しているとのこと。女将さんが中を案内してくれました。

 幕臣山岡鉄舟は、さった峠で、官軍に追われ、引返して、藤屋に助けを求め、この屋の蔵座敷で漁師に変装、隠し階段から脱出し、舟で、清水の次郎長の家に逃れた。その次の次の日、勝海舟の紹介状を持ち、官軍参謀西郷隆盛と駿府(現静岡市)にて会談し、江戸城無血開城の切っ掛けになった。

 清水の次郎長も、この藤屋で、数年の修業時代を過ごしたそうだ。実家は米屋で、修行を終え、商売に励んだが、ある時、旅の僧に、寿命は、25歳と言われ、ぐれだしたそうだ。家は姉に譲り、やくざの世界にはいるが、喧嘩も強いし、頭も切れ、面倒見も良いので、多くの子分が集まった。

 藤屋も、農地改革、商売の失敗などから、今は、建物も、8分の1になってしまったそうです。蔵は200年、母家は400年の建物。東海地震に耐え、今もどっしりと建っている。

 名主を務めていた、小池家の建物が公開されていた。玄関を入った土間の右に8畳間、左に台所のある平屋建ての家だった。今は町が管理しているとのこと。

 整備された庭があった。

 由比駅を過ぎ、由比の宿に入る。由井正雪の家拝見。本陣跡の本陣公園の広重美術館にて、浮世絵を見る。

 遅い昼食に、桜エビのランチを食った。

 蒲原駅から東海道本線で帰る。    

       幼くて世話もせず過ぎし妹が「昔、来たね」とうふるさとの宮

 

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