12 赤坂宿 宮路山 五井山    愛知

 14km      2003/12/04

低い山登り・峠越えへ


 

 9時、名鉄赤坂駅から歩く。電車で、2人のご婦人と一緒になった。岡崎の年金者組合の山登りのメンバーだ。入会しろと誘われた。名電赤坂駅9時半集合して、宮路山と五井山に登り、蒲郡市三谷に降りるとのこと。2000年正月に登った時は、赤坂の4姉妹の2人の元気なお姉さんに合ったことを思いだした。

 一緒に行こうと誘われたが、同じ道順のため、先に行って宮路山で待っている事にして別れた。結果は、合うこと出来ず、年金者組合にも入ることが出来なかった。行き先、ルートなど変更になったのだろうか、不思議だった。

 赤坂宿の旅館大橋屋(江戸時代は鯉屋と言った)。18世紀初めの建物、300年近くたっている。赤坂宿の旅篭で女郎置屋の様式を残しているとのこと。家屋400軒の内、83軒旅篭だった。年間13万人が泊まったとあった。まだ泊まったことはない。
 浄土真宗の太子山正法寺お参り。聖徳太子 を祀る。親鸞、蓮如の六字名号八幅あるとのこと。これも見たことがない。
 御休処「よらまいかん」に寄る。平成14年に出来た。中に、浮世絵の写真が掲げてあった。赤坂の絵が20枚近くあった。こんなに多いとは思わなかった。
 「宮路山登山口」の道標がある所まで歩き、暫く、舗装道路を行く。30分程で山道に入る。
 登山道には、草木の説明が詳しくあり、実物がそこにあった。

 紅葉が綺麗だったので、錦木と言うと説明があった。謡曲に「錦木」と言う曲がある。女の門に3年間立て続けて、求婚したが、果たせず死んだ男女の物語だ。

 山吹。

 「宮路古道切り通し」の看板あり。 宮路山の8合目位の所で峠越え、これより長沢まで下り道となる。谷の道である東海道が出来て「宮路越え」は廃れた。宮路山はこれより、20分程を要す。少し急な登り道となる。

 ここは、コアブラツツジ(一般にドウダンツツジと言う)が数千本、自生している群生地である。 少し盛りは過ぎたが、一山紅葉の景色だ。
 宮路山山頂到着。所要時間1 時間。標高361m。真南の蒲郡は、太陽に向かい眩しく、東方向の豊橋方面は霞んでいた。

 山頂の「宮路山聖跡」の碑は、持統天皇がこの辺りに来ている事を記念したもの。持統天皇は天武天皇の皇后だ。

 夫の天武天皇が死に、壬申の乱で天武派が勝ったが、腹違いの息子、大津皇子を殺し(自分の子、草壁大路を天皇にするため、謀反の名目で処刑)、自分の息子、草壁皇子を差し置いて天皇となり、藤原京に遷都。その後、草壁皇子の子、自分の孫を天皇にして、自らは上皇となり、古事記唐の編纂を命じている。

 その数代後、天皇は、天武天皇の兄、持統天皇の父である、天智天皇系の子孫となり、天武系は途絶える。乱世で、良い仕事をした人は、途絶える例が多い。

 ここ三河も、大和朝廷に反抗した地で、穂の國と言われた時もあり、朝廷との繋がりが強かったと言う。草壁皇子が、壬申の乱の時、ここで兵を挙げたとも言う。持統天皇自身もこの地と関係が深かったのかも知れない。

 「宮路山のドウダンツツジのもみじ葉に持統上皇は皇子偲びしか」 

 この地方では、国府(こう)、三谷、幸田、大井池、御津、大恩寺山、御所橋、五井などの地名がある。宮路山の北東、豊川には、国分寺、国府があった。

 

 赤坂宿の東の山の麓に宮道天神社がある。天武天皇の白鳳年間、草壁皇子がここに住まわれ、この地を領した。その皇子が宮路山に小祠を遣わされたものを村人が保護し崇敬したと言う。その奥の院が、宮路山山頂の東に少し下った所にあった。お参りする。
 約一時間近く待つが、例の年金者組合の連中が現れない。五井山に向かったかも知れないと思い、五井山に向かう。尾根道で、歩きが捗る緩い坂の道。道は、二万五千分の一地図には表示してないが、尾根沿いの市町村境にある。

 途中、標高403mの三角点を確認。

 五井山頂の三角点。標高454m。
 NTTの中継無線等があり、その隣には、吹き流しの立っているハンググライダーの飛び出す施設があった。

 蒲郡の町と三河湾が綺麗だ。昼食を取り、帰途につく。

 ここも、年金者組合の人達は居なかった。往復の道でも出会わなかった。
 

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