2 身延七面山敬慎院 七面山 七面山奥の院 身延山久遠寺 身延山奥の院 祖廟 草庵跡   山梨

28km       2003/11/01〜2003/11/03

低い山登り・峠越えへ

31 山梨  身延七面山敬慎院 七面山 七面山奥の院 身延山久遠寺 身延山奥の院 祖廟 草庵跡

28km       2003/11/01〜2003/11/03

能舞台の名所・旧跡へ


 

 1996年、車で身延山をお参りしたが、その時、七面山敬慎院(けいしんいん)を知った。7年ぶりの思い達成でした。

 新幹線、特急ふじかわを乗り継いで、身延駅へ。バスを1時間待ち、七面山登山口バス停へ。何度も登って いるらしい熊本県の信者の方の提案で、登り口まで、タクシーで一緒に行こうと言うことになり、11時半に到着。順調なスタート。

 登り口は、「羽衣」と言う字名。対岸の春木川右岸に家康の側室「お万の方」の像と、「白糸の滝」があった。水量は余り無いが高さ20m程度の滝。

 「若い時、この滝に打たれた」と話ししている、信者らしいグループがいた。よく見ると背中に「南無妙法蓮華経」と書いた白衣を付けた人達が沢山いる。信仰のお山らしい雰囲気。

 11時45分、登り始める。

 デジカメは、日時を記録してくれるので、写真の記録を兼ねて、最近は多用している。

 神力坊お参り。登山道は、幅広く良く整備され、急坂で大変だが歩きやすい。行列にはならないが、沢山の登山者だ。8割方は日蓮宗の信者の人達のようだ。

 12時50分、肝心坊到着。13時30分、23丁目の中適坊。お参り。

 随分と高く登り、隣の山々が見渡せるようになってきた。

 「秋晴れの富士を仰ぎて登る坂七面山の信仰の道」

 泊は敬慎院。御開扉2000円、参籠志納証3200円、計5200円を納めた。部屋は20畳位で、男女ごちゃ混ぜの15人。風呂は男女別。女が多いので、大風呂は女。男用は4人で満杯の風呂で、”石鹸は使うな”だった。

 6時からお勤め。お経は、鳴り物が入った、非常に早いお経で、山伏のような雰囲気で迫力のある、お勤めだった。最後に、一番偉いお坊さんのお話があったが、ここの創建は、昔、妙齢の娘が熱心に通ってきていたが、不思議に思い、問いただしてみると、龍女とのこと。法華経を守る龍女で、これからも天 上に戻り、法華経を守護すると言って消えたそうだ。

 夕食は、肉、魚のない精進料理だった。ご飯とみそ汁のお代わりはいくらでも良いとのことだった。

 布団は10m位の長い布団を敷き、掛けて寝た。もちろん、服を着たまま、寝た。寝返りが出来る程度で寝られて良かった。1000人泊まれるとのこと。その時は、廊下に寝たり、寝返りが出来ない状態だろうなと、思う。山小屋だからこの程度で最高と思う。

 「宿坊の長き布団に信徒らは包まれて寝る九時の消灯」

 電気電話は、表、裏参道に沿って張ってあった。携帯はドコモが少し通ずる所がある程度で、基本的に駄目だった。表参道沿いに索道があり、食べ物など運び上げているようだった。

 電気が来るまでは、すべて人力でしかなく大変だったろう。

 

 謡曲「現在七面」があ る。日蓮宗の僧侶が作った謡曲とも言われている。お勤めの話とよく似ている。

 内容は、日蓮上人が法華経を読誦していると、毎日参詣する女がいた。ある時、女人成仏の説法を聞き、「自分は七面の池に住む蛇身であるが、三熱(さんねつ)の苦を免れた報恩に本の姿を現そう」と言って消え失せる。やがて、女は大蛇になって現れるが、日蓮の読経で忽ち蛇身から天女の姿となり、「この山の鎮守になり、衆生を広く済度しよう」 と約束し、虚空に消える。と言う話。

 一の池(写真)、二の池、三の池があった。信者が太鼓を叩きお経を上げていた。この池も聖地。

 11月2日、6時5分、ご来光が拝める。遙拝所がお寺の東にあり、富士山が目の前に鎮座していた。数年に1度しか見られない、 すばらしい富士山を見た。
 薄もやの富士山、太陽がもうすぐ出るぞと、遠くの雲を赤く染め、刻々富士山の色が変化する。太陽は、富士山の右サイドの雲から上がった。8月には、富士山の頂上から出るそうだ。
 お寺の裏山の紅葉が、朝の早い光の中で、色が冴えて見えた。
 朝食のお膳を撮った。夕食 もほぼ同じ内容だった。

 ご来光を拝む頃から、本堂では、お勤めが始まり、迫力のあるお経が聞こえてくる。

 お勤めが終わらないうちに、出発することになった。

 7時、 随身門から出発。遙拝所はこの門の前に開けている。
 200m程の登り。富士山と紅葉を見ながら、高山のカラマツの林を登る。
 8時。頂上に到着。標高1982m。三角点あり。

 20人程の登山者がいたが、私以外皆、八紘嶺経由で静岡梅ヶ島に出る予定だそうだ。6,7時間かかるが、道はひどくないようだ。

 私と一緒に裏街道を下ろうと話していたご夫婦も、予定を変更して梅ヶ島に向かう。

 この下る道の右は、大崩壊場とのこと。凄いガレ場らしい。自分の目で、まだ見ていない。

 覗いてみたい気がするが、立ち入り禁止のくどい程の表示を見ると怖じ気付き結局、覗くことは出来なかった。

 富士山が綺麗。
 8寺50分、再び、遙拝所の富士山。
 9時、裏参道を降り始める。

 9時15分、奥の院本殿に到着。敬慎院からここまで、車の通れる道。

 ナンバープレートの付いた軽1台、ない軽1台を見た。頂上の平坦部のみの走行だろう。

 ケーブルであげたのだろう。

 大きな注連縄のある影嚮石(ようごうせき お姿を現す石 七面大明神が現れて日朗上人(日蓮の弟子)を迎えた)があった。

 奥の院も宿泊できるようだった。中学生を頭に4人の子連れの夫婦が泊まったらしい。

 1番小さな子が、「お父さん、お礼を言ってくる」と言って、大きな声で「有り難うございました」と言っていた。良い家族らしい。

 ここの富士山もきれい。
 9時40分、雨畑への分岐点。25000分の1地図の通り。

 明淨坊は戸が閉まり、お寺山の気配がなかったので、素通りした。

 11時10分、安住坊に到着。お参り。

 坊の人達が、便所掃除をしてくれていた。穴を掘って埋めていたようだった。それしか方法がないと思われた。垂れ流しの所もあると思う。すべて、我々の排出物である。

 その人達の子供が坂道を鹿のように走り回っていた。

 大トチノキがあった。日朗上人が植えたそうだ。高さ25m、胴回り7m。
 13時10分、角瀬(すみせ)に到着。13時18分のバスに乗った。客は2人だった。

 4時間を要した。大変な下りだったが、最近、見る機会もないし、自分もやれない事をやる、素晴らしい人達を見ることができた。

 途中で下車し、身延山行きバスに乗り継ぎ、14時45分、三門に到着。疲れたせいか、昼食抜きでも平気。
 三門と本堂を結ぶ、287段の石段、菩提梯を登る。
 本堂と祖師堂お参り。
 報恩閣としだれ桜
 拝殿と仏殿お参り。
 水鳴楼、庭がきれいらしい。

 境内をゆっくり見て歩いた。いや、お参りして歩いた。

 今日の宿舎、西谷の清水坊到着。

 客は、福井の7人と私のみだった。ビール1本と宿泊料7500円だった。良い宿だった。100人位は泊まれそうな宿坊だった。

 11月3日。朝のお勤めが、6時から、1時間、久遠寺本堂であった。お坊さんの学生4,50人を含めた、お経の大合唱だった。

 最後に、一番偉いお坊さんの話があり、最近の親殺しの若者2人の話に及び、信仰の必要を説いていた。若い人の拠り所が無くなっている、と嘆いてみえた。

 8時、身延山奥の院への山道を登り始める。途中、丈六堂お参り。

 

 9時、大黒堂、三光堂お参り。

 三光堂まで、舗装道路だったが、1時間を要し、疲れた。舗装道路は良く疲れる。

 雨に成りそうで成らなかったが、頂上付近は霧で、雨も混じっていたかも知れない。傘をさした。

 参道には、町石があり、数字が1つずつ増えるのが励みとなって、歩いている所がある。昔の人の知恵。

 立派な杉林がある。篤志家の寄進のようだ。

 10時、霧の法明坊お参り。此の近くで、3組の下山者と会う。登る人とは、1人も会わなかった。

 案内地図の予定時間通り。昨日の七面山の下りは、4割り増しだった。

 10時半、奥の院思親閣に到着。お参りする。

 霧下写真は駄目。

 展望台は霧。何も見えない。晴れていれば、七面山のガレ場が見えたはず。

 身延山頂上。標石のない標高点1153m。

 霧と疲れが大きいので、ケーブルカーで降りることに決めた。8分、680円だった。下は、霧はなかったが、曇っていた。

 誰かが、賢明賢明、良い選択をした、と言っていた。 

 西谷の日蓮草庵跡を尋ねた。

 「たとひいづくにて死に候とも九箇年の間心安く法華経を読誦し奉り候山なれば墓をば身延山に立てさせ給へ未来際までも心は身延山に住むべく候」と言う碑文があった。

 死ぬ直前、9年間ここで過ごし、厳寒と戦い、飢餓に絶え、昼は、門下の教養に努め、法華経の深旨を論談し、夜は、法華経の読誦と著述に励んだ地である、と説明があった。

 お墓があった。お参りする。

 真っ赤な紅葉があった。

 13時過ぎのバスに乗り、帰途についた。
 

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