9 比叡山 堅田 仰木峠 大原

6 滋賀 比叡山 堅田 居初氏邸と庭園 出島の灯台 勾当内侍の墓 仰木峠 大原 来迎院

23km          1998/03/21 

低い山登り・峠越えへ 

その他


 

 堅田港に芭蕉の句碑があった。

   「海士の屋は 小海老にまじる いとど哉」 芭蕉

 「いとど」は、こうろぎに似ているが羽根がないカマドウマ(エビコウロギ)のこと。

hiei980321isome.JPG (13113 バイト) 堅田の町は、昔から琵琶湖を利用した商業(をして、時には海賊をした)が発達し、15世紀、蓮如、一休さんの時代、武力を持ち、比叡山とも対抗した、自治の町であった。当時の有力者の子孫の居初(いそめ)氏邸と庭園をみた。

 天然図画亭(てんねんずえてい)と称する建物で、茅葺入母屋造で、広い廻縁を取り入れ書院形式の茶席がある。

 庭は、飛び石、あられ敷きと大刈り込みを取り入れた枯山水庭園である。琵琶湖に接しており、近江冨士を初め湖東の山並みが見られる、借景の構成となっている。
 居初氏邸は、堅牢な石積みで琵琶湖に接していた。穴太(あのう)の石積みと思う。
 祥瑞寺は、一休さんの修行したお寺さん。師匠の華叟和尚の肖像画を見せて貰おうと、何回も訪れているが、未だに、此の寺の和尚さんに会えない。従って見せて貰ってない。
 隣の本福寺は、蓮如さんのお寺さん。ここの宝物も、まだ、見ていない。焦らずに又行こうと思っている。
  裏通りを歩いていたら其角(きかく)邸跡(其角の父竹内東順の出生地)があった。其角は良くここを尋ねていたと言う。芭蕉はここで病気になり、「病雁の 夜寒に落ちて  旅寝かな」と詠んでいる。
 城山三郎の「一歩の距離」の文学碑があった。
 獅子頭が門付けをしていた。
 出島(でけじま)の灯台があった。この付近は、琵琶湖の最狭部で岩礁も多く船の事故が絶えず、明治8年、船が沈没し47名が死亡するという惨事があった。この時、燈台が建てられ以来湖上航路の安全に貢献した。戦後廃止されたが地元の人達が復元したという。琵琶湖大橋が見える。
 勾当 内侍(こうとうないし)の墓をお参り。天皇の女官をしていたが、後に、新田義貞の妻になった。足利尊氏に負けて、越前に向かう時、ここ堅田に置いて行かれた。義貞が戦死すると、自身、琵琶湖に身を投げたと言う。村人は、哀れに思い、塚を築いたが、その後、野神神社に建て替え今も供養しているとの事だ。
 野神神社の境内に、御幣(ごへい)が建ててあり、その謂われが書いた札があった。この辺りは低地で雨が多いと水に浸かり被害を受けた。村人は、神社に日参して助けを求めたが、ある夜、勾当内侍が現れ、御幣のお告げを示し、野神神社の神事になった。それ以来、年ごとに建てられた御幣の高さにより琵琶湖の水位を知る事が出来たそうだ。
  上仰木までバスに乗り、後は歩いた。仰木峠への道は、今は、立派な車の通る道で、峠に至る 200m 位が山道。

 京都側は、大原まで、自然歩道となっている山道。昔、一休さん、1日で、京都の町往復は、大変だったろうと思う。

 大原では、音無しの滝 まで歩き、始めて見る。

 天台声明(しょうみょう お経を節を付けて唱うの)来迎院お参り。
 境内に石仏が集めてあった。又、良忍上人の御廟の三重の石塔をお参りする。
 帰りは、バスで町に戻り地下鉄に乗り換え京都駅に向かった。山の歩きは3時間ほどだった。
 

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