1 謡曲「鵜飼」謡蹟 大菩薩嶺 大菩薩峠 白糸の滝 両国吉良邸 高輪泉岳寺   山梨

63km       2003/10/11〜2003/10/13

低い山登り・峠越えへ

30 山梨 謡曲「鵜飼」謡蹟 遠妙寺 一字一石の塔 笛吹川 鬼苦ヶ島 岩落 御硯水祖師堂

63km       2003/10/11〜2003/10/13

能舞台の名所・旧跡へ


 

 10月11日から2泊3日で、山梨の石和、塩山から、大菩薩峠を越え、多摩に降り、両国吉良邸から高輪泉岳寺まで歩いてきた。雨の大菩薩、泉岳寺でした。
 10月11日 。静岡駅で、特急「ふじかわ」に乗り継ぎ、JR石和温泉駅に、11時に着いた。途中、由比、蒲原の辺りで、頂が少し白くなった富士山が、よく見えた。

 石和は1,2度、温泉に入りに来たが、全然覚え無し。バスで行く、会社勤めの慰安会だった。駅前は再開発中で、西部劇の町に来たような気がした。

 甲州街道 (411号線の青梅街道は勝沼で甲州街道に合流だったかしら?)に出たら、甲州街道ウォークの看板があり、多くの人が歩いていた。12km地点の標示があった。その甲州街道に面して、鵜飼山遠妙寺があった。
 日蓮が漁翁の亡霊に出会って、その霊を弔うため、法華経の文字を小石1つに1字を書いて川に沈め、施餓鬼供養を行い成仏させ、鵜飼堂を建てた。それが遠妙寺の起こりと言う。

 その漁翁は勘作と言う。

 「平家にあらずんば人にあらず」と言ったと言う、平清盛の妻の兄の平時忠は、能登に流されて病死と言うが、ここでは、能登を抜けだし石和に来て勘作と言う漁翁となって、禁断の掟を破って鵜飼をし、簀巻きにされて殺された事になっている。

 境内の漁翁堂の中に、漁翁勘作の墓があった。
 境内に、一字一石の塔があった。

 日蓮が石に書いたお経は、法華経一巻八部六万九千三百八十字だったそうだ。一字一石の塔はこの石を埋めた所に建てた ものを言う。

 甲州街道を100mほど南に行くと、笛吹川。甲州街道ウォーク の人達が川原を歩いていた。街道と笛吹川が暫く平行しているようだ。鵜飼橋、石和橋、笛吹橋、万年橋があった。
 川を越え、日蓮が泊まったお堂、殺された鵜飼の亡霊と会った場所と言う、鬼苦 ヶ島と言う下平井へ。

 安楽寺があった。安楽寺 には、壊れ掛かった本堂と 観音堂があった。観音堂には聖観音像が祭ってあり、藤原中期の古い木像のようだ。

 御硯水祖師堂(みすずりみずそしどう)が万年橋近くの右岸にあった。日蓮は、ここで弟子に石を集めさせ、井戸から水を汲ませて墨を磨らせ三日三晩かかって経文を書いた。
 謡曲「鵜飼」に「今仰せ候岩落辺に鵜使は多し」と言う、岩落を尋ねたが所在不明。御硯水祖師堂の説明文の中に「現在地東方百メートルの地に相生の老杉あり。その西側鵜飼川の本流に岩石そばたち水が衝いて瀧の如くに落ちたので岩落と称した」と説明があった。 その位置は笛吹川の真ん中。
 謡曲「鵜飼」に「そもそもこの石和川と申すは上下三里が間は殺生禁断のところなり」とあり、これは、法城山観音寺の寺領の定めだったそうだ。甲斐の名刹で七堂伽藍の大きなお寺だった。今は小さなお寺さん。 南小学校の裏にあった。
 甲州街道からJR駅への途中に、笛吹権三郎の石像があった。母親と二人暮らしの笛の上手な男が おった。権三郎と言った。ある晩、大洪水があり、母親は流されて、亡くなった。そして、母親が忘れられず笛を吹いて川下を探し回ったそうだ。

 ある時、疲れ切って川に転落し、死んだ。それ以来、夜になると笛の音が聞こえるようになり、この川を笛吹川と言うようになったそうだ。

 昔は、笛吹川は、この辺りを流れていたとのこと。

 中央線に乗り、塩山へ。14時20分のバスに乗る。30分ほどで、大菩薩登山口に到着。乗車賃100円だった。市が援助しており、100円均一料金だそうだ。びっくりした。
 15時。お店で、道を聞く。2時間歩くとのこと。タクシーで行ったらと勧められる。歩くつもりで来たからと断る。林道を登り始める。林道でなく県道だそうだ。絶え間のない登りの道。富士山の登山道を思い出す。
 雲峰寺の長い階段を左に見るだけで先へ進む。丸川峠への分岐点を通過。
 林道と別れ、いよいよ山道に入る。「千石茶屋登山道を経て大菩薩峠へ」の看板を見て、右に曲がる。15時30分。
 無人の千石小屋を過ぎ、草が刈ってある歩きやすい道を登る。多くの下山してくる人達と会う。尾根道であり、登り初めがきつかった。16時。
 初めは杉などの人工林だったが、やがてブナの原生林となる。大人3人でも抱えられない大木がある。国有林だろう。 16時40分。
 17時。ロッジ長兵衛 荘に着く。雲が厚く、薄暗くなっていた。インターネットで見つけた宿である。携帯電話で2週間ほど前に予約した。

 テレビあり。後で聞いたが、電気は、発電機。電気は9時半でおしまい。電話は、ドコモの携帯のみ。

 風呂あり。食事は「ほうとう」がでた。おかわりをした。今朝は5度だった。今は15度とのこと。薪のストーブが働いていた。

 山小屋であったが、綺麗で、食事もうまかった。8時に寝て、5時に起きた。よく寝た。客は満員だった。

 10月12日。雨。余り寒さを感じなかったので、予定通りの、大菩薩嶺へ登り、大菩薩峠に出て、小菅村橋立に出るルートに決めた。6時45分出発。
 小屋の直ぐ裏手からの山道を行く。50m程先を夫婦連れが行く。自分のペースと同じ位のスピードで、距離は縮まらなかった。

 20分ほどで、唐松尾根分岐点に到着。福ちゃん荘には、皇太子ご夫妻が休憩所の張り紙があった。

 汗をかいたので、カッパを脱ぎ、一服。次から次に登ってくる。中年のおばさまが多い。男より女が多い。

 中に、美しい女性2人を連れたグループがあった。カッパを脱いだ時、ぱっと辺りが明るくなった感じがした。カッパを脱いだ時、私が丁度その方を見たんだと思う。

 嶺に向かうか、峠に向かうか、半々の様子。

 改めて大菩薩嶺に向かうことに決め、カッパを着て出発。先のご夫婦は、大菩薩嶺に向かった。その後に続く。雨は止む気配はない。唐松尾根を登る。30分程歩くと、ブナなどの雑木の自然林が現れ、葉が少し色付いて来ている。

 展望の開けた場所が2箇所あったが、視界ゼロ。雷岩近くの急坂で、夫婦連れは、スピードは落ちず、どんどん距離は離れる。これも止む終えない、自分のスピードで、休み休み登る。

 美人グループに追い抜かれた。その後を追い登った。雷岩に到着。8時45分。分岐点から、1時間20分を要した。

 大菩薩嶺に向かう途中、降りてくる夫婦連れと会う。もう会うことはないだろうと思う。数回話をしていたので、もう少しですよと励まされる。

 倒木があり、黄色になった葉が綺麗だった。

 写真に写っている、先に行くグループが美人グループである。

 

 10分歩いて、大菩薩嶺三角点に到達。9時。

 視界は樹木に阻まれゼロ。標高2057m。

 例の美人グループから、写真のシャッターを押してくれと頼まれた。撮ってあげる。

 愛知県から来たと言うと、車で何時間かかったかと聞かれる。鉄道バスの乗り継ぎと歩きと言ったら、驚いていた。東京の人達らしい。

 リーダーが、学生時代、愛知県の新城市や、設楽郡の村で、古文書を何ヶ月もかかって調査した、3年通ったと言っていた。私は、聞きながら美人達を眺めていて、相手のことを聞くのを忘れた。写真を撮らせろとは、言えないもんだなと思う。

 大菩薩峠に向かう。雷岩に出ると、強い西よりの風が吹き付ける。雨の降り止む時に、写真を撮る。
 標高2000mの標識があった。何のためにあるのかと良く眺めると、2000年に建つ、とあった。
 賽の河原の標識と山小屋。親不知の頭 1955mの標識。

 廻りは、薮もなく、晴れていれば良い眺めだろうに、今日は、下を向いて歩くのみ。山小屋は、避難小屋で、泊まる所ではないと注意書きがあった。

 大菩薩峠到着。標高1897m。10時。

 介山荘と売店があった。 西の斜面は笹のある開けた場所と思われるが、ガスがかかり見通しはきかない。風が強く、冷たい。沢山の登山者がいた。

 「 老人を斬りしとう峠の大菩薩今日は嵐で紅葉も見えず」

 

 美人グループに挨拶して、多摩小菅に向かい下り出す。二万五千分の一地図では、点々道、狭いけもの道の道を下る。

 直ぐに、林になった。峠を越すと、風は弱まり、冷たさはなくなる。尻の方に雨水が漏れ、冷えるが、どうしようもない。寒さは感じないので、そのまま、着たまま。

 10時半。丹波山と小菅への分岐点に着いた。雨は小雨になった。

 写真で、左が丹波山、右が小菅への道。

 道は、緩い下りの道である。誰とも会わない。登山者はゼロ。

 分岐のある所には、看板があり、地図と照合しても間違いなく一致し安心して歩くことが出来た。

 日頃の手直しが行き届いているようだ。

 12時。”矢下尾根1120m”の標識のある分岐点に着く。

 また、日向沢方面、赤沢方面の標識。どちらを取るか迷う、結局、人が多く歩いているように見える赤沢方面を選んだ。

 日向沢、赤沢は沢の名前であるが、地図には記載されていない。地形、方向から赤沢の方が近道らしく想像できた。それも赤沢を選んだ理由。

 12時半、大菩薩峠登山口の標識のある林道に到着。雨は止んだ。カッパ、シャツを脱いで乾かしながら、宿が用意してくれた握り飯の昼食。うまかったが、水が乏しくなった。
 バス停まで、5kmほどの林道を下り始める。山道で、誰にも会わなかったので、人の作った林道に出会い、やれやれの気持ちだ。

 初めての道、2000mの山、すこし無謀かな、とも思う。その分、慎重に道を確認、足下を確かめて、ゆっくりと降りたつもりだ。

 13時、白糸の滝入り口に着く。多摩方面から車で来た観光客が数人いた。3時間ぶりに人に会った。10分ほど、急な山道に入った所に、細いが高さ30mの滝があった。

 滝への途中、沢の水があり、缶、コップが置いてあったので、汲み飲む。冷たく、濁りもなくうまかった。

 14時半、小菅バス停に到着。1日5本のバスである。ここからJR奥多摩駅まで1時間を要す。ここ小菅村も山梨県だ。ただ、歩いてきた山道、林道は、ほとんど、東京都水道局の土地のようだった。 奥多摩湖の水源地である。

 バス停の道ばたの石に腰掛けて地図を見ていたら、土地の人に話しかけられた。大菩薩峠はどうだったと聞かれる。丹波まで車に乗せてやる。そこからバスに乗れと言う。丁度、地図を見ていたので、よく見ると、ここよりも遠く成ってしまうし、バスの本数も少ないに決まっていると思い、丁重に断る。

 1人で、山道を越えるのに連れが欲しかったのかな?

 定刻にバスが着いた。バスの運転手から、山登りか紅葉はどうだったかと聞かれた。たまに登山者を乗せるらしい。14時53分、客1人でスタート(インターネットで調べたら、14時54分、バス停の標示14時50分、 いちいち違っているが、のんびりしていてよろしい。時間の余裕を持って歩いたことは良かった)。
 バスは、途中で、登山者らしい人達を乗せ、瞬く間に席が埋まる。これにはびっくりでした。多摩川周辺には、歩いたり、登ったりのコースが沢山あるものと思われた。さすが東京だ。

 東京の水の溜め池、奥多摩湖。沢山の人が出ていた。15時45分、JR奥多摩駅到着。

 宿は、新宿に予約済み。18時半に着いた。
 10月12日。8時、出発。日が出ているが、その内に雨になるらしい。歩いて、未だ、お参りしていない靖国神社に向かう。戦死した叔父ざんをお参りするためだ。
 靖国神社お参り。テレビで良く映し出される本殿も含めて、思ったより、小さい神社だった。

 國を維持する為には、このようなものが必要なんだなと思う。出雲大社のように。

 大村益次郎の銅像があった。これも始めて知 り、見た。
 9時半、両国、「本所松坂町の吉良邸」跡に到着。両国3丁目13の標示があった。

 近所の人が掃除をしていた。昭和9年に地元の人々が邸跡の一部を買い、東京都に寄付して、今の吉良邸跡があるとの事。2500坪の敷地の北側中央部の位置との事。

 お稲荷さんの隣に、愛知県吉良町の「追慕 吉良上野介義央公」の石碑があった。

 吉良上野介義央は、郷里では、よい殿様だったと説明があった。

 首洗い井戸が あり。

 小林平八郎、清水一学等吉良家家臣20士の碑があった。

 西隣の回向院は、戸が閉まっていたので、素通りする(表玄関には廻らなかった)。回向院を過ぎて南下する。両国橋は渡らなかった。どこかで、幕府に遠慮して通らなかった、と読んだことがある。
  隅田川に掛かる新大橋を右に見て、なお、南下する。
 芭蕉記念館に寄り 、展示の書画を拝見。入場料100円。

 館内に石の蛙があったが、これは芭蕉が好んだ池の蛙だったとのこと。芭蕉庵の位置は正確に判らなかったが、この蛙が出土した事から、ここを「芭蕉翁古池の跡」としたそうだ。不勉強で知らないが、石の蛙は書類で残っているのだろう。

 芭蕉は、芭蕉庵を人に譲って、弟子の杉風(さんぷう)の家から、「奥の細道」に出発している。

 「草の戸も 住替る代ぞ 雛の家」 小さな女の子の居る人に譲ったようだ。

 記念館の裏に出ると、隅田川。

 新大橋と清洲橋。

 200m程南の小名木川の辺に、芭蕉庵史跡展望庭園があり、芭蕉座像があった。
 小名木川に架かる万年橋の手前 、芭蕉庵史跡展望庭園の直ぐ近くに、芭蕉稲荷神社があった。

 「石の蛙」の出た場所とのこと。芭蕉庵史跡と標示があった。

 11時。永代橋を渡る。両国橋を避けて渡った橋だそうだ。

 霊岸島から稲荷橋、そして浅野家の旧屋敷の築地鉄砲洲を通り、汐留橋に出、日比谷から金杉橋、将監橋を渡った

 写真右は亀島川。

 鉄砲州稲荷神社お参り。
 聖路加病院の一角に浅野内匠頭屋敷があった。石碑があるとの事で捜す。

 病院を2廻りするも判らず、都の案内地図版を見ると、看護大学の西にありと判明。

 大分時間を使ってしまったので、急ぐ。築地の市場で右に折れ新橋演舞場の前を通る。

 12時。市場では、寿司屋さんに行列が出来ていた。”とろ”が安く食べられるんそうだ。昭和通りに出て、左折。雨が降り出した。傘でしのぐ。

 新橋で、第一京浜の15号線に出、なお、南下する。牛丼の吉野家が、100mも行かない内にいくつもある。昼食は牛丼とした。大盛り440円。
 金杉の交差点を過ぎ、札の辻と第一京浜を南下 。
 14時、泉岳寺に到着したが、土砂降りの雨となる。着ているもの、びしょ濡れとなる。

 写真も撮ること不可能となる。

 大石内蔵助、大石主税の墓だけ、漸く、それと判る写真を撮る事が出来た。

 写真の白いぼつぼつは、レンズに雨が付いた跡が映ってしまう。デジタル写真機の特性かな?

 地下鉄泉岳寺駅に駆け込み、少し寄り道の気持ちで、五反田までの切符を買い、五反田まで行く。

 駅は人で一杯。山手線が不通とのこと。私鉄へ振り替え輸送を始めている。泡を食う。

 新幹線は、何時の電車でも良いと思い、山手線の車両に乗り込む。濡れた衣服で腰掛けが濡れないかきになるが、30分も経つと体温で、大分、乾いた気がした。ようやく動き出した。やれやれだ。

 新幹線は、こだまに乗った。2時間半で豊橋に着いた。ひかりに比べ、1時間余分だが、ほとんど、寝ていた。
 

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