2009/12/31 2010/01/04

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     四国遍路アンケートに答える

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1.性別は男性ですか女性ですか?   男性。

 

2.現在のご年齢と遍路時のご年齢は?   現在のご年齢 71歳。

第1回遍路時 60歳(還暦)  第2回遍路時 64歳(サラリーマンの終わり)  第3回遍路時 71歳(古希)。

 

3.遍路時、遍路前のご職業はなんでしょうか?   遍路前  会社員。

第1回遍路時 会社員  第2回遍路時 退職直後  第3回遍路時 パート就業中。

 

4.お遍路にどれだけの日数がかかりましたか?

第1回遍路時 69日  第2回遍路時 43日  第3回遍路時 60日。

 

5.通し打ちでしたか?区切り打ちでしたか?または、その他の形式のお遍路でしたか?

第1回遍路時 区切り打ち  第2回遍路時 通し打ち(逆打ち)  第3回遍路時 通し打ち(八十八箇寺+別格二十箇寺)。

 

6.信仰はお持ちですか?   持っていません。

 

7.一人で歩きましたか、誰かと歩きましたか?   一人で歩きました。

 

8.遍路のきっかけと動機を教えてください。

・  50歳代から、体力維持のため、東海道、中山道など歩いていましたが、四国遍路に思いが至り、インターネットで調査の上、出かけました。

・ 信仰はないといっても、お参りの形式は守り、各お寺で、般若心経は2回づつあげ、賽銭、納札してきました。上着は白装束、ズボンは普通。笠は帽子。杖は常時持つ(武器として使える)。

・ ついでに、西行の足跡、謡曲の旧跡の土地を訪ねること。

・ 健康と時間とお金が確保出来たこと、が最も重要でした。

 

9.遍路中の印象深い出来事をあるだけお答えください。よろしかったら具体的なエピソードもお願いします。

・ 初回は、足のマメに苦しめられました。2回目、3回目は、10日目には完治し、歩きに慣れて歩くことができ、寝れば次の日は、快適に無理なく歩けるようになりました。通し打ちは、10kg体重を落とし、血液検査は正常になりました。その後、1年で元に戻ってしまいましたが、血液検査は、ほぼ正常です。

・ 3度目になっても、スタンプラリーでした。

・ 第1回目、崇徳天皇陵は、白峰寺の裏にあり、ほとんど訪ねる人がいませんが、私が訪ねた時、菊が鉄索の間に供えてありました。次に訪ねたときもありました(このときは遍路ではなかったと思います)。その後の遍路、2回とも、お参りしてきました。人とはいつも会いませんでした。

・ 屋島、鳴門の通盛の妻(小宰相局)の墓、西行の足跡を、知っているところすべてを、歩いて回ってきました。

・ 外国人が、真面目に、形式を守って歩いていました。イギリスの印刷屋さんのおじさんと、片言の日本語と、外国語を話さない私と仲良くなり話が出来ました。今も、メールのつながりがあります。スペインの巡礼にも行ける、行こうかな、と思っています。

・ 遍路を待っている人がいました。呼び止められ、家に入って、話をして代参を頼まれ賽銭を貰いました。カリエスで歩けない人でした。そして、代参を確実にしてきました。名前も住所も聞かなかったので、その人には報告はしてありません。

・ 地元の人が、遍路の世話をよくしてくれました。遍路宿の女将親父さん、町の人、子供たち。私は、気分の悪い思いは、1度も経験しなかったように思っています。悪い事は忘れたかもしれませんが。

・ 遍路宿は、ほとんどが無理をしても泊めてくれました。ひとりか、家族でやっているところが多いようでした。3度目では、廃業している宿が多かった。通り道の以前世話になった宿は、確認してきました。 2009年末に、西国巡礼してきましたが、半分以上、ビジネスホテルの使用でした。

・ 第1回目、しまなみ海道の開通日に気づかず、宿はすべて断られてしまい、途方に暮れたところ、農協に勤める人が自宅に泊めてくれました。特に、家族の方が、嫌そうな態度を何も示さなかったことを、ありがたく思いました。 足摺岬から、海岸づたいの道でしたが、2,3回目は、近道の山の道にしました。

・ 第3回目、税理士をやめて京都から高知に移ったボランティアに会いました。はつらつとやっていました。私には、もう真似は出来ないと思い、うらやましく思いました。

・ また、脱サラの宿の亭主がいました。秋、私が泊まったときは満員でしたが、正月下旬、今年2人目の客が今立ったとメールがありました。こちらも、私には、もう出来ないと思い、うらやましく思いました。

・ また、短歌結社の同人を相当長い間やってきた、短歌の本だらけのおばあさんが、宿の女将をしていました。短歌の添削をお願いし、布団引き、風呂焚きなどの手伝いをしてきました。

・ 第1回目、乳母車を押して、俳句を作って、遍路しているおじいさんと意気投合しました。しばらく経って、テレビでそのお爺さんが紹介されました。有名になっていたんでしょう。ところが、その後、そのお爺さんは、人を傷付け、逃げていたことが分かり逮捕されました、とテレビと新聞に出ました。テレビはそのテレビ放送を取り消すと言っていました。人の生き様を知りました。私と会った頃は、すでに捕まることを承知していたと思われます。承知して、テレビの撮影を承知したと思います。最近も、新聞や放送で、ホームレスの人、刑務所に入っている人、病院から退院できない人などからの投稿短歌が、よく載っています。泣き言は感じられない、落ち着いて、素直な短歌が多いと思います。そんな感じのお爺さんでした。

・ 最近、自分の余命を知った大学の先生で、おおらかにこの世の別れを語っているテレビを見ました。私も、笑ってこの世を去ることが出来れば、最高と思っています。

・ 遍路の方に、どうかと思う人が目につきました。威張る人、生意気な人、自慢する、ものを捨てる、宿を無断でキャンセルする人です。私は、そのような態度、行動はしないように努力しましたが、果たして出来たかどうかはわかりません。

・ 徳島県最後の日和佐(NHKの朝ドラの舞台の)の23番薬王寺あたりまでと、その後の遍路の人が、がらりと変わりました。後者は、真面目に歩こうという人です。先に紹介したイギリスの印刷屋さんは、12番焼山寺あたりから時々一緒になり、足摺岬あたりまで、たびたび会いました。

・ 通し打ちでは、相性のよい遍路さんと仲良くなりました。逆打ちは、毎日会う相手が変わりますので、寂しいものでした。また、3回目の順打ちは、番外を含めて回りましたので、仲良しになってもすぐに別れとなってしまいました。

・ 初回の区切り打ち1回目の、田圃の中の法輪寺で、ものすごい美人に会い、話をしました(白装束なのでそう思ったのかもしれません)。彼女は、7時前だったので、記帳所の開くのを待っていました。私は急ぎお参りして戻ったら、もう居ませんでした。車はなかったし、田圃の中ですから、歩くのは見えるはずです。それが、全然見つかりません。記帳所に聞けば、今出て行ったという。その後、2回 の遍路では、彼女の座っていた石だけ、そのまま、そこに残っていました。

・ 次回、喜寿の4度目を予定しています。ゆっくりと歩いて、相性のよいお遍路さんと仲良くなるのを楽しみに、体力維持をしようと思っています。頼りがいがなければ嫌われます。ねちねちとすれば嫌われます。

 

10.普段の生活と遍路中の精神的な面での違いはありましたか?それはどのように違いましたか?具体的にお答えください。

・ 全然違います。仏さんになったように、従順になり、嫌らしいことを言われても何とも思わなくなります。説教するような気持ちもなく、自然任せであるが、極めて、計画的に、皆さんに迷惑をかけないように、遍路が出来るようになります。皆さんに、素直にお礼が言えるようになります。家に帰ると、1週間経たないうちに女房に文句を言うようになってしまいます。修行が足りないと思っていますが、そのようになってしまいます。

・ 2週間過ぎれば、歩くことが苦になりません。朝起きれば、また歩こうという気になります。夜は、7時になれば寝ます。どこでも寝られます。満州から引き上げた人々は、どんな気持ちで歩いたのだろうと、よく思いました。日本まで帰れた人の話は聞けましたが、死んだ人たちのことは何も分かりません。

・ 遍路の短歌を投稿しましたが、私がよいと思ったのは、採って貰えませんでした。くどいのは、読む人から見れば、あまり感動は受け取って貰えないようです。

・ 能は、戦乱の室町時代に大成された芸と思います。人の心の内が、よく見えます。ただ、戦乱の世での救いはありませんので、神にすがるしかありません。崇徳天皇など、いい対象と思いますが、類推される能はないと思います。作者も、そのような能は創らなかったと思います。また、西行も、四国への旅立ちは、親しかった天皇が流されてから、10年以上たってからです。普段、あまり考えが及ばない、こんなこともよく思いました。

 

11.遍路中どのようなことを考えて歩かれましたか?

・ あまり人の手の入っていない自然があります。見ているだけで1日が暮れます。よく持つものと思うほど見飽きしません。

・ ただ、ひたすら歩くことができました。もちろん、体力維持が必要ですが、不思議な心です。

・ 神さんと仏さんの並んでいる我が国、朝、神棚に手を合わせ、夕に仏壇に線香を上げる、我が家。このような国に生まれて、よかったなと、つくづく、思 いました。

・ よく、親のことを思い出しました。

・ 短歌が、すらすらと浮かんでくることがありました。

・ 暇になったら、謡曲を謡おうと思いましたが、1度もしませんでした。

・ 般若心経は、2週間ほどで覚えました。

・ 自分の体力の限界をあまり考えなくても分かるようになります。サボるという気持ちではなく、明日は休もうと歩きながら思う事もありました。祖先が草原を駆けずり回っていた時も、そのように思ったのではないかと思いました。私は動物だと感じました。

・ 日頃、心の隅に引っかかっている、考えなければならないこと、について、いろいろ考えることができました。結論は、出ませんが、出来るだけ、野にいる動物のごとく行動できるように、人間という動物のごとくに行動できるように考えたいと思う。

 最近、高度な医療の発達は、障害者を助け、お金が掛かるという発言があった。障害者も天才も、生きていく生き物が必要とする営みの1つです。発言者の意図は、別のことだったかもしれませんが、許すことの出来ないことと思います。

 満州へ渡った人たちに、その土地の人々が襲ってくるのを、匪賊と称した。なぜ? など考えてみました。

 

12.どのような接待を受けましたか?そのお接待にどのように感じましたか?

・ 食べ物、ハンカチなどのもの、お金を貰いました。

・ 拝まれました。姿が見えなくなるまで手を合わせて居たおばあさんがいました。

・ 第1回目、足の痛みと暑さにまいって、甲浦大橋のたもとで、休んでいると、喫茶店のおかみさんが、冷たいおしぼりと冷たい水を持ってきてくれた。余り無理するなと言われた。この一言で、今回は、この甲浦で帰ろうと、腹が決まった。このおかみさんのおかげだった。

 また、甲浦の駅の売店の売り子さんが、暑いお茶を持ってきてくれた。よほど草臥れているように見えたようです。ともに忘れないお接待でした。2回目の遍路時には、この喫茶店は閉鎖されていました。荒れた店に自然と頭が下がりました。3回目は朽ちかけていました。

 双方の助け合いと思います。人間らしい行動と思います。唯一の神をあがめない、神と仏の混在する日本人のおおらかさを思いました。かって、大陸で先輩たちはその土地の人たちを匪賊と呼び、イラクはテロリストをかくまい、原爆を持っていると、軍隊を送り、反乱と言って、チベットを押さえ込む、そういう考え方と違う考えと思います。先の戦争と、今の世の中、我ら日本人は、何か誤っているのではないかと思われる。

・ 自動車に乗れと言う接待をよく受けました。これは、すべて断りました。上手に断ることが出来ました。

 

13.遍路前と遍路後の変化はありましたか?どのような変化でしょうか?

・ 自宅へ戻れば、元の木阿弥です。それでも、少しは変わったかもしれません。自分が死ぬ時に分かります。しかし、死ぬ時、生きている人たちに伝えることはないと思います。

・ 死を宣告されても、大丈夫かな、と思えるようになりました。お金を稼ぐ仕事を真面目に真剣に文句を言わずにやっています。謡曲、短歌が続いています。短歌は、放送、新聞で、時々採って貰っています。夜もぐっすりと寝ています。女房が寝込んだら、歩きは止めて看護しようと思っています。いや、私が看護されるかも。

・ 子を作り、育て、古希を過ぎました。遍路は、死への準備です。死ぬまで歩こうと思っています。

・ 健康、時間、お金がないと、何も出来ないと思いました。いや、そんなことはない、とも思いました。

以上

 

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