第25日目     2002/11/22 (金) 

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 経路    土佐くろしお鉄道中村駅 H井の岬

 歩き距離 29千歩 20.3km  地図上距離 23km

 出発 12時  到着 16時  曇り  すれ違ったお遍路さん 3人

 宿屋    H井の岬  泊まりのお遍路 1人


 8時半、高知駅に着き、12時、中村駅到着。

 井の崎岬へ向かう。この道も初めて。古津賀分岐点を確認。

 下田口で海岸沿いの遍路道に入ったが、遍路地図の点々道への取り付きが判らなかった。地図を見ながら、うろうろしていると、地元の人が寄ってきて、この道を行けと教えてくれる。地元の人にお礼を行って教えて貰った道を進み、途中で、海岸に出る事が出来た。

 正確に、地元の人に、意志が通じないと思った時は、うろうろせず、歩き続ける事。

 海岸の自転車道に出たかった。先回、この道で、暑くて、裸になり、暫く松林で寝ころび休んだ。

 14時、松原大橋に出た。鳥が休んでいた。周辺は少し整備した様に思われる、少し変わっていた。

 覚えのある入野分岐点で、国道56号に出た。

 井の岬への旧道にはいる。字の読めない大きな石碑があった。

 宿で聞いても何の碑か判らなかった。ただ、ここの山の上には、石碑など古い物が沢山あり、整理した事があると言って見えた。

 日の入りは、雲が多く見られなかった。残念。風呂はぬるぬる、透明の温泉。多分湧かしているのだと思う。いい湯だった。

  

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第26日目     2002/11/23 (土) 

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 経路    H井の岬 岩本寺 岩本寺

 歩き距離 46千歩 32.2km  地図上距離 26.9km

 出発 6時半  到着 14時  晴れ  すれ違ったお遍路さん 4人

 宿屋    岩本寺  泊まりのお遍路 2人


 岬の東側からの日の出が綺麗だった。

 国道56号を行く。佐賀の町では、遍路道へは入り損ない、国道を行った。この先の旧道の山越えの遍路道は、あえて通らなかった。

 市野瀬では、片坂第1トンネルまで、山道の遍路道を登った。登り口が判らず尋ねる人も居なかったので、地図を頼りに山勘に頼った。

 山に懸かり、56号が大きく右に曲がる所から、山に取り付き、左方向に進んだ。途中、土砂崩れがあり、四つん這いで通過。無事、トンネル横に出た。途中、国道の車の音が聞こえ、安心して歩いた。大成功だった。

 時間を掛けてでも、地元の人か、順回りのお遍路さんを捕まえて道を教えて貰う事。

 トンネルを抜け、国道を行く。窪川側の遍路道入り口の四国電力電柱置き場も確認。

 13時半過ぎ、37番岩本寺到着。

 お参りを済ませ、鐘楼際の良寛さんの友達、阿部定珍の墓を写真に納めた。遍路に出て、ここで病没。60歳だった。

 今日は、このお寺さん泊まり。早かったが、部屋に入れてくれた。ありがたい。

  

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第27日目     2002/11/24 (日) 

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 経路    岩本寺 大善寺 Hさつき

 歩き距離 50千歩 35km  地図上距離 30.5km

 出発 7時  到着 16時  晴れ後曇り  すれ違ったお遍路さん 5人

 宿屋    Hさつき  泊まりのお遍路 1人


 今日も、国道56号。窪川の町の中の遍路道は、1本道。1km程で国道に出た。

 下呉地も国道を行く。

 9時半、窪川影野。お雪椿があった。お墓と共に、よく手入れしてあった。

 影野の地頭の娘、お雪はお寺の若僧と仲良くなり、一緒になったが、子供が出来なかった。が、里人に慕われた。二人が死んだ後、夫婦お墓の傍に、里人がお雪が好んだ椿を植えた。樹齢350年、今も毎年咲く。

 10時過ぎ、7子峠。窪川の町から、緩やかな登りだったが、ようやく峠。

 ここから、山の遍路道に入り、急な下り。途中で、登ってくる、この峠は初めてという地元の人に会う。立ち話をする。安和の人で、自転車で来たとの事。同年配の人。

 この坂道は、1km下ると、平地となり軽の通る道になる。2km、舗装なしの山道。後は舗装道。

 大阪の集落。先回、ここの農家の若奥さんと話しながら、ここまで来た事を思い出す。奥から5軒目が私の家、と言っていた。相手が、私を覚えていてくれるならば、会いに行きたい気持ち。

 もっと平地部分が広かったと思っていたが、極めて狭い谷の平地だった。記憶違いもひどいものだ。

 焼坂峠は国道のトンネルを通る。

 須崎の新荘川橋辺りは、新しい道が出来ていて、すっかり変わっていた。

 15時半、大善寺お参り。宿坊を始めたとの事。お寺さんを写真に撮る事を忘れた。

  

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第28日目     2002/11/25 (月) 

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 経路    Hさつき 青龍寺 国宿土佐

 歩き距離 46千歩 32.2km  地図上距離 25km

 出発 6時半  到着 14時  雨後晴れ  すれ違ったお遍路さん 4人

 宿屋    国宿土佐  泊まりのお遍路 4人


 須崎の町外れまで、国道56号。土崎合流点辺りは、道路改修で、ゴチャゴチャになっていて、ようやく住友大阪セメント工場前にたどり着いた。

 鳥坂トンネルに行くには、複雑な箇所はないので、方向は間違えないで行けるが、川の横断があるので、見える橋を目指して歩いた。。整備が完了すれば、歩き安くなるだろうと思われる。

 押岡辺りの道際に遍路向けの案内があり、順回りの説明として、住友大阪セメントの前で、左に曲がり、川を越え、直ぐ、右に曲がり、川沿いに大峰橋まで行く。右に曲がり、大峰橋を渡り、直ぐ左折し、川沿いに行き、鉄道を越す。JRおおま駅か、観音寺際に出る。との案内地図があった。

 逆打ちは、観音寺に寄り、道を聞くと良い。

 鳥坂トンネルを越えた。先回、佛坂の道を行っていたのに、間違えて、このトンネルに来てしまった、思い出の所。

 海沿いの道を行く。目の前に、向こうの山と道が見えるのに、曲がりくねった海岸線は、時間が掛かる。歩くのは、何ともないが、目の前に、ご馳走を置かれたようで、ウンザリする。

 その代わり、風が当たらず、暖かい、見晴らしの良い海岸を見つけ、昼食を取る。夕べ、パンを買っておいて良かった。売店がない。

  13時、宇佐の町に入る。須崎市の区域は実に広い。

 宇佐大橋は風が強く歩いていてふらつく。車が来ない時は、車道を歩いた。海は大波がしぶきを上げている。台風が沖を通っているらしい。

 青龍寺の参道に入ると、石仏が並んでいる。88体在るようだ。

  13時半、36番青龍寺到着。賽銭、お札を納め、般若心経をあげ、記帳して貰う。

  奥の院への急坂を登る。初めてである。お参りする。奥の院の裏を覗くと、断崖絶壁の下に海が小さく見えた。

 今日の宿は、この奥の院の隣り。見晴らしがよい。

 15時まで、ロビーで待ってほしいと言われた。

  

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第29日目     2002/11/26 (火) 

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 経路    国宿土佐 清瀧寺 種間寺 雪渓寺 高知屋

 歩き距離 53千歩 37.1km  地図上距離 30.8km

 出発 7時半  到着 16時  晴れ  すれ違ったお遍路さん 10人

 宿屋    高知屋  泊まりのお遍路 2人


 自動車道を下る。まだ、波が高い。

 宇佐の町で、塚地峠越えの遍路道を確認。遍路札で直ぐに判った。

 今日は塚地トンネルを行く。高岡町に入り、遍路地図の点々道を行く。学校の手前を左に曲がり、三嶋神社の横を抜け、田んぼに出る。高速道路が出来て様子が変わっているが、東谷の参道に行き着けた。

 石仏が沢山ある参道だ。

 11時、35番清瀧寺お参り。

 高岡の町まで、車道を通り、国道56号に出る。食事処を見つけ、昼食を取る。

 仁淀川を渡って右折する所で道が無く慌てた。よく見ると、国道の下を通り、川に沿う道があった。よく見れば、遍路札もあった。

 遍路地図も、右折れがはっきり表現されて居るので、地図を良く読む事。

 遍路道を行く。

 14時半、34番種間寺お参り。

 春野町の高知市境に近い唐戸で、道を間違え、1kmほど行き過ぎた。保育園の前の細い道を右折せず、広い道を直進してしまった。よく見れば遍路案内もあった。

 注意不足。遍路地図だけだと、ちょっと判りにくい。注意不足はかわいそうかもしれない。

 唐戸は、人が切り開いた運河のある所。後、この運河沿いに行けば、雪渓寺である。

 16時、33番雪渓寺お参り。先回、台風がひどくなりそうなので、ここで打ち切り、高知駅へ向かった。列車の切符が買えたので喜んだが、運行中止となりがっかり。仕事に間に合わなくなる、どうしよう。うろうろしているといろいろ目にはいる、バスの窓口で聞くと、夜行バスは動くとの事で、漸く帰る事が出来た。

 境内に、太玄塔(雪渓寺再興の和尚さん)、土居楠五郎墓碑(坂本龍馬の師匠)、石仏墓碑の一塊があった。

  

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第30日目     2002/11/27 (水) 

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 経路    高知屋 禅師峯寺 竹林寺 高野寺 安楽寺 Hタウン駅前

 歩き距離 37千歩 25.9km  地図上距離 21km

 出発 7時  到着 15時半  晴れ  すれ違ったお遍路さん 7人

 宿屋    Hタウン駅前  泊まりのお遍路  人


 渡船に乗るべく渡船場へ。これも初めて。7時半に到着。 ストがあると昨夜聞いていたので、今朝早く出た。待合い所にストの表示があった。時間区切りストで、私の歩きには支障なしだった。

 通勤通学の人が多かった。渡船料は無料。市の船だった。先回、渡った浦戸大橋を見上げながら、対岸に着いた。

 覚えのある旧道の遍路道を行く。

 禅師峯寺の登り口が判りにくかった。聞く人も居なかったので、車の参道から遍路道は別れていたのを思い出し、左への車道を曲がる。50m位行くと、山道の遍路道があり 遍路札があった。車道の左折箇所の遍路札は気が付かなかった。

 左の山の上がお寺さんのため、大きく間違える事はないが、地元の人に聞いた方がよい、と思った。

 9時半、32番禅師峯寺お参り。

 境内の岩の露出している所に、石仏がまとまってあった。時間が経つと面倒を見る人が無くなるのだ。少し寂しい気がするが、逆に、自然のままで良いとも思う。

 歩き道を降り、細い道を通り、北側の道を目指す。順回りの場合は、目の前に、山道の遍路道登り口があり、迷う事はない。

 道路に出る手前で、野村さんのお宅から、声を掛けられ、接待のお茶をいただく。玄関先で、例の世間話。自分たちも、禅師峯寺の住職が先達となって、今まで毎年お遍路していたが、今年は行けなかった、と言って見えた。

 トンネルを越え、吹井へ。

 10時半過ぎ、武市半平太の旧宅。 家の前まで行ってみた。お墓もあるようだ。

 下田川の左岸を下り、五台小学校へ出た。これから、山の遍路道に掛かる。遍路札もあり、迷うこともない。

 11時半過ぎ、33番竹林寺お参り。

 ここにも、石仏の集まりがあった。

 句碑が6つ。最後の句の作者判らず。

    腸の汚れ濯かん苔清水 佐藤哲山

    花はらむ梢の痩や冬木立 似芳坊

    折々は枯るるも時の柳かな 松窓

    ほろほろと山吹散るか瀧の音 芭蕉

    寒声のあとや松風瀧の音 其性

    さし柳葉となる雨のこぼれけり

 山門を降りて右に曲がり、車道を行く。先回は、左の植物園の中を通って上がって来た。

 12時半過ぎ、五台山の公園に。

 公園の建物の横の遍路道を下り、直ぐに、伊達騒動の伊達兵部少輔宗勝の墓に到着。伊達騒動の責任を取らされ、この地の山内家にお預けとなった、と説明があった。

 山を下り、初めての青柳橋も無事越え、高野寺へ向かう。

 14時、高野寺お参り。ここから、北にとり、安楽寺へ 。

 14時半、安楽寺お参り。青柳橋から、高知駅まで、お遍路さんとは、1人も会わなかった。ほとんどのお遍路さんは八十八箇所を主に廻って見えるんだと、自分で納得。

 高知の町を過ぎ、28番大日寺まで、宿がない事と、高知市内を歩いてなかったので歩きたく、今日は高知市内宿泊にした。

  

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第31日目     2002/11/28 (木) 

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 経路    Hタウン駅前 善楽寺 国分寺 大日寺 国宿海風荘

 歩き距離 50千歩 35km  地図上距離 29km

 出発 6時半  到着 16時  晴れ  すれ違ったお遍路さん 2人

 宿屋    国宿海風荘  泊まりのお遍路 2人


 高知駅から、善楽寺の道は、遍路地図の道を歩いた。神社の鳥居に行き着き、境内を通り、善楽寺へ。

 8時、30番善楽寺お参り。

 お寺の北に回り、国道へ出た。地図ではここから点々道の表示であるが、その取り付きが判らなかったので、国道を行く事にした。

 300m程度行った地点で、順回りの時の墓地公園の横を降りて行く降り口を確認した。

 国道と別れ、刑務所横を通り、高知医大の裏に出た。ここから、また、点々道の水路の畦道を行く。

 岡豊橋に出て、国道を越えると、田んぼに出る。田んぼの遍路道。国分寺が見える。 墓地公園の降り口からここまで覚えがある。特に、国分寺南の田んぼと遍路道は鮮明に覚えている。理由は良く判らない。

 9時半、29番国分寺お参り。門 を出て、いつもの1礼をして振り向くと、順回りのお坊さんに会う。長い時間見られていた感じがする。私の手にある遍路地図を見て、逆打ちかと  声を掛けられて、お話しする。

 自分は、逆打ちは2回、順回りは?回目(忘れた)、何回歩いても、道を間違える、と言って見えた。私も、道を間違えるのは当たり前のつもりで歩いています。2回目です。

 句碑歌碑が4つあったが、

    来し方を行く方を草朧かな 高木晴子

 しか、判らなかった。

 祈年の分岐点も良く判った。ここを左折。JRを越え、昔からの遍路道を行く。都築さんの無料接待所を見て、戸板島橋を渡った。

  12時、28番大日寺お参り。ここにも石碑の集まりがあった。

 昔からの畑の中の遍路道があった。ほんの短い区間だったが、このような道は、嬉しくなる。

 龍馬歴史館による。岡田以蔵、武市瑞山、近江屋の騒動などの蝋人形を、1時間ほど見学。

  1国道55号に出て海岸の道を暫く行くと、左側に、無人島長平の像があった。 200年前、遭難して鳥島に流れ着いたが、挫けずに、12年後に生還した、の説明板があった。案内板に、平成10年の日付があった。

 

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第32日目     2002/11/29 (金) 

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 経路    国宿海風荘 神峯寺 濱吉屋

 歩き距離 52千歩 36.4km  地図上距離 34km

 出発 7時  到着 16時  晴れ  すれ違ったお遍路さん 13人

 宿屋    濱吉屋  泊まりのお遍路 2人


  8時、虚子の句碑、龍馬の妻お龍と妹君枝の像 のある、芸西村琴ヶ浜の公園到着。

       春潮の騒ぎて網を曳くところ 虚子

 先回は、まだ開通していなかった鉄道に沿って、海岸の自転車道を歩く。天気が良く、見晴らしも最高、矢流の岬の休憩所で、また、一服。

 安芸市不動に、梛(なぎ)の木が55号線の真ん中にあった。道路拡張によって道の真ん中になったらしい。

 安田明神で、左の旧道に入る。 13時過ぎ、登り口に到着。

 ここから、3kmほどの登りの参道を行く。途中、大きな荷物の若い2人連れを追い越した。若い人を追い越したのは、久しぶり。

  14時過ぎ、27番神峯寺お参り。先回、このお寺さんにお茶の接待を受けた。雨で、寒く、実に有り難かった事を思い出した。

 関東からの車のお遍路さんに、声を掛けられた。私の掛け軸を見たいらしかった。朱印を乾かすために、広げたままで、お話しする。羨ましがっていた。

 追い抜いた若者二人は、相変わらず、現れない。駐車場を少し下った、椅子などが少しあるお休み所の場所でようやく会った。荷物が大きく、登るのに苦労しているように見えた。 野宿のつもりらしい。お別れの挨拶をして別れた。

 車道を外れた歩き道を降りていた時、10人ほどの集団のお遍路さんとすれ違う。みんな元気な所を見ると、山道だけ歩いて、お寺の移動は、車でしているようだ。いろんな遍路の仕方がある んだな、と感心する。

 

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第33日目     2002/11/30 (土) 

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 経路    濱吉屋 金剛頂寺 津照寺 太田旅館

 歩き距離 46千歩 32.2km  地図上距離 29.9km

 出発 7時  到着 15時  曇り後雨  すれ違ったお遍路さん 5人

 宿屋    太田旅館  泊まりのお遍路 1人


 奈半利の町は、旧道の遍路道を通った。6地蔵があった。

 ここで、鉄道はお終い。気が付いた時から、ずっと高架の鉄道だった。終点も、高架の橋がスパッと切れていた。バブルの遺産の1つ、黒字だろうか心配になる。

 奈半利の町外れで、中山越えの遍路道を探したが、見つけられなかった。3箇所ほど山に入ってみたが、不明。

 国道沿いで、人を捕まえる事が出来なかったので、国道を行く事にした。どうしても中山越えなら、地元の人に聞くこと。

 羽根の港に、紀貫之の歌碑があった。

      まことにて名に聞く所 羽根ならば 飛ぶがごとくに 都へもがな

 傍士(ほじ)の金剛頂寺への車道、平尾の歩き遍路道共、遍路札などあって、良く判った。

 13時、26番金剛頂寺到着、裏道となるので、本堂に出るのに大分遠回りした。

 下山途中、川村与惣太の墓をお参り。「土佐一覧記」と言う、土佐の国の行脚の記録の著者で、金剛頂寺の住職もしていた人、との事。

 14時過ぎ、25番津照寺お参り。雨のお寺さんだった。

 

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第34日目     2002/12/01 (日) 

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 経路    太田旅館 ロッジ尾崎

 歩き距離 37千歩 25.9km  地図上距離 22.3km

 出発 7時半  到着 15時  曇り後雨  すれ違ったお遍路さん 8人

 宿屋    ロッジ尾崎  泊まりのお遍路 1人


 高知大学の100km貫歩(学校から室戸岬まで100kmを寝ずに歩く)が昨日朝9時スタート。標準で本日午前ゴールとのこと。時速4kmが必要、相当大変だ。

 歩き始めると、前方に、2,3組の歩いている姿が現れた。みんなへとへと、マメと筋肉痛で、足を引きずっていた。意識朦朧の人もいた。追い抜きの挨拶をすると、室戸まで、後どの位、と切実な声で聞かれた。地図を見て、後何kmと正確に知らせてあげた。若いことは良い事だ、気持ちも良く判る、後少しがんばれ。

 室戸までの間で、10人位追い抜いた。1人もいたが、2,3人の組が多かった。女の方が、しっかり話が出来た。丈夫に出来ているらしい。

 9時、室戸岬。公衆便所のある小公園にゴールがあった。便所に行こうとしたら、貫歩のメンバーと間違えられた。一般の人も参加しているのかな。

 2,30人が休んでいた。途中落伍も多いんだろう。室戸岬に12時過ぎまで居たが、ぞろぞろゴールの雰囲気は無かった。全部で、300人位の参加だそうだ。

 歩き遍路道を登る。奥の院をお参り。20分で登れた。足も丈夫になった。登り口もばっちり、迷う所なし。

9時過ぎ、24番最御崎寺到着。お札を納め、賽銭、お経をあげる。最後に記帳して貰う。後、23寺だ、と一瞬思う。

 今日は、たっぷり、時間があるので、いろいろ見学の予定。

 お寺の宿所を見に行く。ユースホステルの看板があった。次の時は、ここに泊まろうと決めた。

 山を下り、11時、中岡慎太郎の像へ。岩盤のため根が地上を這っている、あこうの木を写真に撮る。

 水掛地蔵には、沢山のお地蔵さんがあった。海で亡くなった人を弔うためのものとの説明があった。喉を涸らして亡くなった海難の人を弔うために水を掛けるとの事。捕鯨で取った鯨の供養もしている。

 11時半、御蔵洞お参り。

 子授けの岩、弘法大師行水の池、など名前の付いた岩が沢山あった。

 今日は、尾崎泊まり。

 

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第35日目     2002/12/02 (月) 

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 経路    ロッジ尾崎 みなみ旅館

 歩き距離 50千歩 35km  地図上距離 33.6km

 出発 7時半  到着 16時  晴れ  すれ違ったお遍路さん 5人

 宿屋    みなみ旅館  泊まりのお遍路 1人


 太平洋からの日の出、今日も駄目だった。

 今日も1日、歩くのみ。国道55号を行く。

 佐喜浜のスーパーは、先回、土砂降りの雨に会い、雨宿りさせて貰った店である。朝早いため、閉まっていた。その節は、お世話になりました、と自然に頭が下がる気がする。

 これから「淀ヶ磯」4里。 9時前、佛海庵に到着、お参り。

 先回は、雨の道だった。台風だったかもしれない。今日は、快晴。澄んだ海を見て、ただただ歩く。いろんな事が頭に浮かび、暇にならない。

 きっと、歩きの皆さんも、歩きながら、考えをまとめたり、先の事を考えたり、しているのだろう。山登りの人、探検家の植村さん達も、同じだろう。

  10時前、法海上人堂お参り。お堂が綺麗になっていた。魚寄せ地蔵、お参り。

 野根大橋のお地蔵さんをお参りして、野根の町に入る。先回、泊まった宿もあった。

 甲浦。徳島の鉄道の終点。この駅にもお世話になったが、今日は寄らず通り過ぎる。甲浦大橋の際の喫茶店に世話になったので、今回も、点線遍路道は行かず、国道を行く。

 大橋を越えた右側に喫茶店の店が見えた。しかし、店まで行くと、店は閉じたまま、相当時間が経っている。

 先回、足のマメが酷く、漸くここまで来て、この喫茶店の前の木陰で休んだ。声を掛けてくれた人が居た。この喫茶店のおかみさんだった。おしぼりと、冷たい飲み物を持ってきてくれた。本当にありがたかった。

 夏で暑かった。余り無理するなと言われた。この一言で、今回は、この甲浦で帰ろうと、腹が決まった。このおかみさんのおかげだった。宿を決めてなかったので、昼前だったと思う。

 閉まったお店に、お礼の挨拶をする。

 宍喰も、国道を行く。

 国道沿いの宿、食事、喫茶の店がたくさん閉鎖していた。撤去されて、何にもない箇所もあった。

 海部駅を見て、右に曲がる。今日は、お世話になった喫茶店に寄るつもりが、潰れていて果たせなかった。

 

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第36日目     2002/12/03 (火) 

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 経路    みなみ旅館 鯖大師 薬王寺 薬師会館

 歩き距離 46千歩 32.2km  地図上距離 28.3km

 出発 7時  到着 15時半  晴れ  すれ違ったお遍路さん 1人

 宿屋    薬師会館  泊まりのお遍路 1人


 この遍路道は初めてである。先回は、間違えて国道55号を通ってしまった。距離は大差無しのようだ。浅川の港を抜け、川の所で、国道に取り付いた。

 9時、鯖大師到着。お参りして、記帳して貰う。不動洞窟があり、一回りしてきた。八十八箇所のお寺の写真があり、お不動さんが居らした。30分ほどいたが、お参りは私、1人だった。

 今日も良い天気で、海も静かだ。

 内妻トンネルを抜けた所から、海の方へ降りた所に、目あき大師が座して居った。

 トンネル入り口には草鞋(わらじ)大師が居た。そこからこの内妻の峠越えの旧土佐街道、遍路道の案内があった。次の時は、峠越えしよう。 

 また、無人の接待所があり、お湯がポットに入り、コーヒーなど置いてくれてあった。10時半。

 牟岐の町を抜けると、山に入る。

 辺川の集落の遍路道の入り口は確認することを忘れてしまった。平間の降り口は確認した。

 日和佐トンネルを通り、日和佐の町に入った。薬王寺が見える。このお寺さんと88番大窪寺、87番長尾寺は3度目である。

 15時、23番薬王寺到着。お参りして薬師会館へ行く。今日の泊まりは、私1人。

 

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第37日目     2002/12/04 (水) 

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 経路    薬師会館 平等寺 龍山荘

 歩き距離 50千歩 35km  地図上距離 28.4km

 出発 7時  到着 16時  雨後晴れ  すれ違ったお遍路さん 6人

 宿屋    薬師会館  泊まりのお遍路 4人


 国道55号を行く。先回、昼食をとった食堂をみて、星越トンネルを越え、10時過ぎ、小野の由岐分岐点到着。

 先回、由岐へ出るつもりが、国道55号を歩いてしまった。その為、改めて2000年5月、JR阿波福井駅を降り、由岐経由で、薬王寺まで歩いた。

 10時半、鉦打到着。55号線の際に、鉦打坂薬師堂、鉦打大師堂があった。由来の説明看板、新しい花が供えられていた。地元の人が、しっかりと世話しているんだな。

 ここから、国道と別れ、車1台通る、遍路道を歩く。分岐点、山の道も良く覚えていた。峠を越えて、月夜、広重、生谷、片山の集落を行く。

 12時過ぎ、22番平等寺お参り。ほぼ雨も上がり、カッパを脱いだ。境内に、石仏が沢山集めてあった。 

 お寺を出て、右、南への遍路道を行く。この道沿いも石仏がたくさんあった。

 大根峠への遍路道へ入ったが、山の歩き遍路道へ入る箇所を間違えた。間違いに気が付かず、舗装が無くなる所まで行ってしまった。

 この間違いは、大事件だ。農家を1軒ずつ、玄関まで行き、案内を乞うた。留守が多く、3軒目で、お爺さんに会う事が出来た。

 よく間違える所で、もう何回も教えてやった。もう少し下って、左へ曲がれ、と言って見えた。みかんを貰う。

 お礼して、向こうを見ると、山の裾を順回りのお遍路さんが歩いている。

 分岐点は、遍路札、四国の道の石柱もあった。よく見れば判る。

 ここに、お墓があった。最近のお墓はなかったので、無縁のお墓なんだろうと思う。

 13時半、山に登り始めた。1時間ほど時間を費やした。しかし、間違えるのは、当たり前で行こう。時間の余裕もあるし。

 阿瀬比で、国道195号と緩い角度で交差する。真っ直ぐ行けばよいと頭で思っていたので、195号線を行きそうになった。太陽が真正面に見えたので、足が止まった。

 すぐ、気付き、少し、右方の道へ向かった。地図をよく見れば、195号は西に、遍路道は北。ただし、天気が悪く、太陽の光がなかったら、195号線を行ってしまったろうと思った。

 確認しなかったが、195号線取り付きの道を間違えていたかもしれない。順回りの時は、スムースに歩いたので。

 

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第38日目     2002/12/05 (木) 

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 経路    龍山荘 太龍寺 鶴林寺 立江寺 ちば

 歩き距離 46千歩 32.2km  地図上距離 28km

 出発 7時  到着 16時半  晴れ  すれ違ったお遍路さん 7人

 宿屋    ちば  泊まりのお遍路 2人


 太龍寺までは、一本道。車道の突き当たりの茶屋は閉めていた。先回は7月だったが、やはり閉めていた。春秋の人出の多い時のみ開いているのだろう。

 ここから参道。工事用の軽トラックが2台ほど登っていった。

 8時過ぎ、21番太龍寺お参り。お寺で、鶴林寺への道を聞いた。登ってきた所をもう少し降りて、細い道であるが、右へ降りろ、後は迷わない。川に出たら、鶴林寺に登る道を聞くように、と教えて貰った。その通りだった。

 順回りの娘さんと行き会ったので、道を聞く。太龍寺へは、この橋を渡れば、一本道と教えた。大井の休憩所で一服。

 11時半前、20番鶴林寺お参り。恥ずかしながら読めない句碑があった。瀧佳杖の句?

 鶴林寺から生名へ降りる道をどうして、確認したか、すっかり忘れてしまった。山門は鶴林寺の最後の撮影時刻となっていた。山門から降りろと聞いたかもしれない。迷った事はなかったので、はっきり道が判っていた模様。水呑大師はお参りした。みかん畑の長い下り坂を下った。先回、ここを登る時、道を間違えた。

 12時半、生名の集落に降りた。

 14時過ぎ、沼江大師、胎蔵寺お参り。沼江大師は胎蔵寺の一角にあった。

 15時過ぎ、19番立江寺お参り。ここにも沢山の石碑がまとまって立っていた。

 恩山寺の山の遍路道には、義経の足跡があったのを思い出したが、恩山寺のお参りは明日とし、自動車道を行く事にした。

 今日は、疲れた。

 宿の部屋に備え付けの落書き帳をめくってみていたら、去年の秋、お遍路した仕事の上の先輩の書き込みを見つけた。お遍路した事は聞いていたが、まともに、大変苦労した書き込みを見てしまった。

 早速、書き込みの住所宛に、”書き込みした事覚えていますか”のはがきを出した。

 焼山寺で道を迷い、野宿して、ひどい目にあった。這々の体で、飛び込んだ宿で、暖かく迎えてくれて助かった。大日寺の宿と、この宿へのお礼の言葉があった。

 

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第39日目     2002/12/06 (金) 

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 経路    ちば 恩山寺 井戸寺 観音寺 鱗楼

 歩き距離 36千歩 25.2km  地図上距離 21km

 出発 7時  到着 15時半  曇り  すれ違ったお遍路さん 1人

 宿屋    鱗楼  泊まりのお遍路 1人


 7時半前、18番恩山寺お参り。ここも、石仏がまとめてあった。

 門を出た所で、散歩のお爺さんが、左を指して、この道が立江寺への遍路道だよ、と教えてくれた。先回、降りていった道である。丁寧にお礼を言って姿が見えなくなるまで見送った。

 旧道の遍路道を行く。

 勝浦川橋を越えた所で、旧道を止めて、初めて通る国道55号を行く事にした。2軒屋駅の近くで、又、旧道に出た。

 今日は時間が余っていたので、阿波おどり会館を見る事にした。阿波踊りは、ビデオが大型画面で映し出されていた。普通の日でもあり、お客は2,3人。ゆっくり、見せて貰った。

 立木義浩の写真展”阿波踊りを撮る”も見る。白黒の写真。光の調子、構図がいい。プロだなと思う。1937年生まれ。同年代だ。ここ徳島の産。そう言えば、TVでそんな放送があったような感じがする。

 12時、眉山に登る。見晴らしがよい。吉野川がきれい。眉山の由来の碑があった。万葉歌から名付けたとの事。

  眉のごと雲居に見ゆる阿波の山かけて漕ぐ舟とまりしらずも 船王(ふなのおおきみ)

 徳島市内で、国道192号に出て井戸寺へ向かう。

 14時前、17番井戸寺お参り。境内に石仏。宿坊は閉じていた。

 曲がりの多い遍路道であるが、間違えることなく行けた。少し田舎の地かなと思う。

 15時過ぎ、16番観音寺お参り。

 

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第40日目     2002/12/07 (土) 

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 経路    鱗楼 国分寺 常楽寺 大日寺 童学寺 植村旅館

 歩き距離 46千歩 32.2km  地図上距離 23.9km

 出発 8時  到着 16時  雨  すれ違ったお遍路さん 6人

 宿屋    植村旅館  泊まりのお遍路 1人


 15番国分寺に向かう遍路道は、30m道路に変わっていた。国分寺のある矢野の集落も、広々と見渡せる農地のため、見当が付き行き着く事が出来た。

 8時過ぎ、15番国分寺お参り。国分寺は八十八箇所の内に各県に1つずつ計4つある。聖武天皇が全国に作らせたお寺。

 六地蔵板碑あり。板の石碑で、6つのお地蔵さんが細い線で彫られている。室町から戦国時代にかけて作られたとの事。

 常楽寺までの短い遍路道に、沢山の石仏があり、昭和6年の日付のある”無縁者の墓”もあった。

 8時半過ぎ、14番常楽寺お参り。

 大日寺までの遍路道にも、石仏が多い。鮎喰川を渡る橋の途中から、右に降りる遍路道も、良く判った。田圃の道。

 先輩が、這々の体で、飛び込んだ宿の横を通り、車道に面したお寺に出た。

 10時半過ぎ、13番大日寺お参り。 

 刑務所の横を通り、行者野橋を渡り、童学寺へ向かう。12時、大師茶屋の碑に出会う。

 トンネルを抜けると、下に、大きな町が見えた。こんな山の中なのに、なぜ、大きな町があるんだろうと思った。鉄道の音も聞こえてくる。道を間違えたかと、地図を見直した、が間違いなし。

 13時過ぎ、童学寺お参り。大きな町についてお寺さんに聞いてみた。徳島の隣町で、国道192号で来れば、ここは直ぐ、と聞く。

 遍路地図だけ見ているので、大きな範囲を見ていない。その為の錯覚。遍路地図もよく見れば、お寺さんの言われる通り。

 来た道を帰り、行者野橋に出て、そのまま左岸の道を登る。阿野橋で、地図の遍路道に出た。駒坂の歩き遍路道入り口は、判ったが、雨のため、遠回りの車道を行った。

 宿は、先回も世話になった宿に到着。ぴったり、予定の4時到着ですね、と褒められる。私の歩いてくるのを大分前から、見ていたらしい。カッパを広げて干す、泊まりが少ないので出来る事だ。

 今日も1人。食事時、おかみさんと話をする。若い男の子に途中で会ったろう、昨夜泊まった子の由。大日寺の近くですれ違った子だ。

 冬に入り、お遍路さんが少なくなった。孫が夏休みに来て、手伝ってくれたが、やる事がないと直ぐ、帰ってしまった。のんびりな四国の生活。都会の生活。など 、ゆっくり話が出来た。。

 部屋にあった宿帳を広げると、1998年の記録があった。その時、一緒の4人の名前があった。こちらは、沢山思い出す事があるが、おかみさんの方は、勿論、何も覚えていない。

 

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第41日目     2002/12/08 (日) 

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 経路    植村旅館 焼山寺 藤井寺 さくら旅館

 歩き距離 43千歩 30.1km  地図上距離 25.3km

 出発 6時半  到着 16時半  雨  すれ違ったお遍路さん 3人

 宿屋    さくら旅館  泊まりのお遍路 1人


 集落外れの橋を渡ると3差路がある。真ん中の山に登る道へ行け、と教えて貰い、難所の焼山寺へ出発。長い登り道を、まだ薄暗い中を行く。

 8時、玉ヶ峠到着。400m登る、長い登りだった。先回下るのに、足が痛くなった事を思い出す。一服する。 

 暫く行くと、左へ降りる遍路道。先回は、ここを上がって来たと思うが、はっきりした記憶がない。今日は、雨のため、林道を行く。

 玉ヶ峠から林道、約40分で、T字路に出た。ここで、右か、左か、迷い、右にとった。登りである。自分の感であるが、どうもおかしい。戻る決心をする。

 地図も読めず、聞く人も居ず、1番困る。地図を良く読んで、磁石で方向を確認して、後は自分の感だけである。

 T字路に戻った。又、迷うが、左の道を行く事にした。下りである。そのうち、人家が見え出した。正解だった。

 見覚えのある、鍋岩の集落である。集落は覚えあるが、玉ヶ峠への登り口は思い出せない。

 おばあさんに声を掛けられて、30分ほど話する。孫の話が多かった。

 9時半、杖杉庵お参り。衛門三郎霊跡 衛門三郎大師との出会いの像。

 10時過ぎ、12番焼山寺お参り。

 ここ焼山寺から藤井寺へ行く道をどう辿ったか忘れてしまったが、間違いなく、左右内(そうち)の集落に出られた。

 下って、左右内の集落に入ると遍路道を見失なった。家の門を叩き、遍路道を聞く。直ぐに判った。

 歩いてきた道をそのまま登っても、間違いではなかったが、遍路マークが確認できないとやはり不安。不安な時は、何度も聞く事。

 又、登り。一本杉庵到着。大きな杉と大師像と堂。大師像の前の石の階段を下りて、又、山の歩き道。

 柳水庵に到着。泊まりは休んでいると言っていた、人はいる様子だった。雨がひどくなった。

 ここから先は、さすがに、遍路さんには会わなかった。ひたすら歩き。

 雨のため、下の様子は見えなかったが、時間の経過、辺りの雰囲気から、藤井寺に近づいたと思われる頃、林道に入り、少し下ったが、どうもおかしい。藤井寺からは、直ぐ山には入り、石仏のある登り道だった。林道がこんなに長いのは怪しい。

 見通しがきけば、はっきりと違うと思われただろうが、何も見えないため、ここでも自分の感だけがたより。林道を戻る事にした。

 案の定、林道の曲がり角で、曲がらず真っ直ぐ行く遍路道があった。遍路マークもあった。

 石仏のある道が現れ、一安心した。

 16時、17番藤井寺到着。お参りする。記帳の時、逆ですか。ご苦労様、と言われた。

 鴨島の駅前に泊まる。

 

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第42日目     2002/12/09 (月) 

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 経路    さくら旅館 切幡寺 法輪寺 熊谷寺 十楽寺 安楽寺 地蔵寺 大日寺 森本屋

 歩き距離 49千歩 34.3km  地図上距離 30.5km

 出発 7時  到着 16時半  曇り時々雨  すれ違ったお遍路さん 3人

 宿屋    森本屋  泊まりのお遍路 3人


 吉野川の洪水の時沈む橋を見たくて、遍路道に戻り川島橋へ出た。健在だった。橋は1つと思っていたが、この辺りの吉野川は2筋になっていて、沈む橋は2つあった。記憶とは怪しいもんですね。歩いて見て触って確認が必要と反省。

 この中州は、田圃、畑となっていて、家も建っていた。ただし送電線の鉄塔は、根元がコンクリートで巻いてあり、水が出る事を予想した物になっていた。

 切幡寺まで順調に遍路道を行けた。

 9時過ぎ、10番切幡寺お参り。

 ここからは、今回、第1日目のある板道。間違えることなく、歩き快調。

 10時、9番法輪寺お参り。また、 このお寺で、ちらっと見ただけで、後、会う事の無かった、綺麗なお遍路さんを思い出す。

 少し道を間違えて、熊谷寺の総門を通らなかった。自動車の道を歩いたかな。

11時半、8番熊谷寺お参り。団体さんの記帳を待っていた時、若い女の子が話しかけてきた。2日目の東京の学生との事。1人で心細い感じ。

 夕べ、和尚さんが、お遍路は人生と一緒と言っていたが、本当ですかと聞かれた。そうだねえ、何があるか判らないし、ある程度予定をたてないとうまく出来ないし、人と仲良くしないといけないし、高い山もあり、崩れた道もあり、それでも越えていかなければならないし、本当だね、人生と一緒だね、と答する。

 賢そうな子だった。お参りしてくるとの事で、多分、もう会う事はないと思うが、頑張って下さい、と言ってお別れ。

 帰りは総門を通る。

 13時、7番十楽寺お参り。

 13時半、6番安楽寺お参り。 

 旧道の遍路道を行く。

 15時過ぎ、5番地蔵寺 お参り。お寺さんが、5百羅漢はお参りしたかと聞かれた。先回お参りした。親父に似た羅漢さんは居なかった、答える。

 宿に荷物を預け、大日寺に向かう。お寺の入り口まで道が広くなっていた。石仏が道の隅に綺麗に座していた。

 16時、4大日寺お参り。

 夕食時、お遍路さん3人だった。

 

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第43日目     2002/12/10 (火) 

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 経路    森本屋 金泉寺 極楽寺 霊山寺 徳島駅

 歩き距離 21千歩 14.7km  地図上距離 6.6km

 出発 7時  到着 9時半  曇り時々雨  すれ違ったお遍路さん 3人


 愛染院を通る遍路道でなく、旧道を歩く。

 8時、3番金泉寺お参り。

 このお寺は、先回も、お参りの後、道を間違えたが、今回も、間違えないつもりが間違えた。思いこみだけだ。南に向かい鉄道近くまで来てしまった。

 磁石も見なかった。人に聞きもしなかった。鉄道の音が聞こえて、ようやく、おかしいと気付いた。1km以上のロス。同じミスの繰り返し、自分がいやになる。

 遍路道に戻り、極楽寺の山の歩き遍路道入り口を確認して、遍路道は行かず、旧道を歩いた。

 9時、2番極楽寺お参り。

 9時半、1番霊山寺お参り。1番スタートだったので、お礼参りとなった。1回目は、あーやったと喜びも大きかったが、今回は、これで一区切りという程度の感じ。

 道を間違えた事もあり、9時30分のJRに乗れなかった。後2時間待ち。バスの時間を調べると、直ぐにある。急いでバス停へ。

 バスは、大回りして、吉野川を渡り、徳島駅に着いた。

 高速バスで、神戸舞子に出て、新大阪から新幹線に乗って家に帰った。

 

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高野山参り     2002/12/15 (日)、16(月) 

初めに  終わりに   逆打ちで、私が間違えた道  前の日へ  逆打ち目次へ

 経路    名古屋 新幹線 新大阪 JR 難波 南海 往復 高野山 金剛峰寺 奥の院 

 宿屋    桜池院  


 新幹線、南海と乗り継いで、高野山へ、山には、雪があった。先回、泊まった宿坊に今回も世話になった。

 16日、9時頃出たが、さすがに寒かった。金剛峰寺をお参り。別格20番の記帳帳に記帳して貰う。

 奥の院には、バスを使った。お参りの後、掛け軸の記帳をして貰う。これで、すべてのお寺さんの記帳完了。

 山を下り、大阪道頓堀で少し散歩。火事のあった法善寺横町を歩いた。南座再建中。相変わらず、すごいエネルギーの町。サッカーで、若者が飛び込んだ橋を見て帰る。

 

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終わりに    第88番大窪寺から第1番霊山寺まで

期間 2002/10/27〜2002/12/10  歩いた距離 1295km

初めに  逆打ちで、私が間違えた道  逆打ち目次へ  四国遍路八十八カ所へ  ホームへ


 逆打ちは、今回のみで終わりとし、今後は順打ちで巡礼しようと、つくづく思った。逆打ちは、出会う人とは、本当にただ1度の出会いのみである。

 大師と同行二人と言われているが、人と出会う事、話をする事など、私にとって、いかに常に必要な事か今回のお遍路で、教えて貰った。

 少し寒くなり歩く人が減ったこともあるが、人との挨拶、”こんにちは”の言葉が4,5回だけの日が半分程度もあり、宿到着がまことに待ち遠しかった。宿も、私1人の日が半分あり、逆に、宿の おかみさん達とは、良く話をする事が出来た。

 人恋しさは、私の修行が足りないこともあるが、言葉を持ち、笑い、涙を出して泣く人間の当然の姿かとも思った。

 私は、人とのお付き合いは、上手とは言えないが、人は社会を作る生き物と改めて思い、人とのお付き合いを積極的とは行かないまでも、今後とも、今まで以上に続けようと心に決めて遍路道を一回りしてきた。

 少し前まで、重い病気を背負い、遍路道を歩いていた人がいたが、だだ1人で、どんなに寂しい気持ちで、歩いていたのか想像も出来ない。歩きながら、そんな事に思い及ぶと、お寺さんの便所に「来た時より、きれいにして帰る」の張り紙も合わせて、自分の身勝手を反省しながら、あれも改めよう、これも改めようと思う事が多かった。

 この不景気の時、悠々とお遍路しているのを、苦々しく思っている人がいる事も承知して歩いた。そのためか態度、言葉であからさまに言われた事はなかったが、十分に感じた。

 また、若くして逝った同僚たち。この四国の土地で生活している、安い料金の宿のおかみ、働いている百姓さんたちをみると、これからの生き方は、よくよく考えなければと思った。

 

 石碑、お墓を見てこよう、記録してこようと出かけたが、写真に納める事が漸くだった。記録も出来ず、ただの写真の集まりを作っただけだった。

 この石碑、お墓を本当に知ろうとするのは、本格的に資料を集め、現地に何回も出向きやる事が必要。今回は失敗だった。

 

 白峰寺の裏、崇徳天皇陵に今回も菊の花が供えてあった。どのような人が供えるのか、どんな気持ちで供えるのか判らないが、この不幸な天皇を悼み、この天皇の気持ちを思い、供えているとしか思えない。

 最近は、儲からない事はやらない、やるからには効率よくやるなど西洋風の考えが、最優先の世の中であるが、我が国の昔からある、この花を供える気持ちは大切にしなければならないと思う。

 そのためには、部屋を暖めて仕事をしている、車で出かける、私の今の生活、これら自分の生活から改める必要がある。

 車で出かける事を半分にする事、コタツを止める事、即実施し始め、年が改まった今も出来ている。今後も続けよう。

 

 道の間違いが、沢山あった。全くの致命傷は無かったが、念には念を入れて行動したにしては、よく間違えた。最も、順回りでも、よく間違えたし、間違えて当たり前なのかもしれない。

 

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